
見えないものの表言
大分日が沈むのが遅くなって、午後6過ぎまで明るいのですが、
今はとっぷり暮れています。朝から冷たい雨が降っていましたが、
何とか日課の朝散歩を終えられて感謝でした。
道を知っていることと、歩くことは別だ。
とは誰かが言った言葉だったのですが、
今ここでググるのは止めておきます。
確かに知識があることと、
実践は全く別個ではあるのですが、
車軸で繋がる両輪の様な関係でしょう。
知識を得る為に何かの行動をしているのではなく、
何か行動する前に必要な知識を学ぶのですが、
実際は行動して初めて得られる知識もあって、
しかしそれは簡単に言語化出来ないことが多く、
謎に満ちた無意識の深淵に踏み込むようであり、
また暗闇の中で雲を掴むような感覚でもあります。
心理学者のユングはシンクロニシティという言語を用いていますが、
たとえば、急に誰かの事を思い出した時、
その人から電話が掛かってくるとか。
或いは急に誰かの事が心配になって
連絡してみたら、転んで大怪我は免れたものの
丁度病院に運ばれたとこだったとか。
世間一般によく言われる虫の知らせは、
学問の世界ではシンクロニシティと呼ばれ、
信仰の世界ではその人の内なる声、又は霊の声と呼ばれるものです。
そう考えると学問も深堀りするにつれ、信仰の領域にまで至るわけで、
逆に信仰も深堀りするにつれ、学問的というか、論理的に言語化されるわけで、
要するに自分の知識を言語を用いて他者に伝える手段としては
今のところ、論理を使うしかありません。
逆に言えば論理が通っていないものは知識として伝えられないし、
よって、学びとることも出来ません。
特に信仰など見えない霊の世界を扱うものは、
どうせ見えないのだから何を言ってもバレないと、
当たるも八卦、当たらぬも‥と言った似非信仰教が跋扈しやすいのですが、
そういうスピリチュアルの類はすべて体系化されておらず、論理が全く一貫していません。
ただそう見えるよう装っているだけなので、
その真の動機を見抜いて騙されない様に注意すべきです。
その点、新約聖書に於ける特にパウロ書簡は、
論理を用いて書かれているので感謝です。
しかもその後二千年以上の長きに渡り一貫して変わる事がありません。
つまり誰もそれに加えたり、差し引いたり、改良を加えたりしていないわけです。
というか、あまりにもそれは完成されていて、
誰にも手が付けられないと言った方が正しいでしょう。
ただし、論理はそれ自体では正誤の判定をしません。
たとえ論理が通っていたとしても、
それが果たして正しいか、間違っているかまでは判断しません。
ただ、自分の意見なり考えなりを相手に伝える為には
論理という手段を用いるしかないのです。
それが正しいかどうかは、例えば時の経過によって証明されることになるでしょう。
論理が通る為には三つの要素が揃う必要があって、
意見と常識とデータになります。
これら三つが揃えば論理が通った事になります。
しかし先にも書いたとおり、それが正しいかどうかを
論理は問うものではなく、
あくまでも自分の意見を相手に伝える手段に過ぎません。
こうして論理は最高の方法ではないとしても
今のところ人類に与えられている方法はこれしかありません。
音楽の世界では、見えない音を譜面に表しています。
楽典に於ける記号化は、論理に於ける言語化とよく似ています。
結局、聖書を学ぶことによって、私たちの無意識の領域に
見えないものを表現する能力が蓄積しているのは間違いなさそうです。