(アーカイブ説教集 1994年8月6日礼拝メッセージより)
天変地異
暑い毎日、北半球では暑中お見舞い申し上げます。
夏は暑いのですがこう毎日続けば少し異常ではないかと思います。昨日は40度を越えた所もあり、世界的にも猛暑だそうですが、ニュージーランドでは50年ぶりの寒さだとの事。天変地異の前触れ説もあったりで、何か起こりそうな気配もします。
自然界にはまだまだ未知が多くあります。先日も福岡の水族館で体長2m位の白い魚が展示されてありましたが、説明によれば魚の捕獲された日付と場所の他に、これは謎の多い魚で何処でどのように生きているのか誰も知らないとあって、大きいのは5m位あると書かれてました。
またこの魚が出てくると天変地異が起こると書かれてあり、現にそこに展示されているのが捕れた翌日は何十年振りの大雪が降ったそうです。少し涼しい話に成りました。
人の救われる時代
夏休みの最中で子供をあちこちでみかけますが、博物館などに出かけて行く事は大変勉強に成ります。今も昔も人は自然界やその動植物などを見ながら天変地異の気配も感じ取るようになっているのでしょう。最近は気配を感じ取る感覚が鈍ってきている傾向にあるのはあらゆる計測機器の発達によるものかも知れませんが、やはり機械では感じ取れない部分もあるはずです。
ルカ伝第12章54節から56節までを読んでみると、そこに気色とあって「けはい」とルビが付いてます。イエス様がおっしゃっている事によれば、今のこの時代が何の時であるのかを天地の現象を見て感じ取るべきだとのこと。
今の時代が何であるのかをもっとはっきりと聖書によって把握しておく必要があります。たとえ天地の気配を感じ取れなくても、聖書を知っているなら少なくとも今の時代を正しく把握しているはずです。
今の時が分かれば、自分のなすべき事が分かり、これから起こって来る事に対して備えが出来るはずです。
コリント後書第6章2節下半句に「視よ今は恵みのとき、視よ今は救いの日なり」と書いてあります。まさしく今は人の救われる時代です。教会では毎日の様に洗礼式が行われています。
神の豊かな恵み
救われた方々は家族親族を連れて再び教会に来られます。
各自の祈りや願いに応える神の不思議な働きが表れてきます。
先週ある少年が安息日礼拝に来ました。夏休みになったので教会に来れるようになり、又かぶと虫が欲しくてまず教会でその事をお祈りしたいと思ったのでした。少年ですから神様にお願いすれば与えられると信じています。
ここは田舎とはいえ、昨今はかぶと虫を捕まえるのも困難です。住宅地域ではもはや貴重品です。先日教会に来た子がくわがた虫を2匹くれたのですが、さて一体どうしようかと考えてしまいました。私は家にいない事も多く面倒が見れません。街中に住む信者さんに連絡してみたら大変に喜んでぜひ欲しいと言うのであげて来ました。街中ではデパートで買う人がほとんどです。
子供達はかぶと虫が好きで本を読んだりして知識もあり、餌もおが屑も飼育箱も高価な物で揃えたとしても、肝心のかぶと虫が手に入りません。しかしお祈りが出来る事は幸いです。神様は大人の祈りでも子供の祈りでも同じ様に答えて、私達の喜びを満たして下さいます。
さて、この少年が教会から家に帰ると、家の隣にあるダイハツ自動車営業所がその日からキャンペーンを始めていました。お客さんの子供達にかぶと虫を用意していたのです。そこの店長さんがこの子の家にかぶと虫を2匹届けてくれました。更に夕方、余ったかぶと虫を4匹持って来てくれました。少年も驚いて神様はこんなにたくさん与えてくれたと親に証をして神様の聖名を崇めています。
私達の求めに勝って豊かに与えて下さる神です。少年も素晴らしい体験をしましたし、これからの生涯にとっても大きな益となる事でしょう。
神の恵みを制限しない
さて、我々は今の時を知っています。今は恵みの時、今は救いの日です。神の恵みは体験を通して教えられます。その恵みは我々の予想よりも大きなものです。我々は有限の恵みを想像しますが、神の恵みは無限です。
また恵みとは私達が働いたからご褒美の様に神が下さるものではありません。もしそうであればそれは恵みではなくて給与とか報酬になってしまいます。
しかし祈りに応えてくれるとは神の約束です。聖書には約1万3千の約束が記されてあります。それらはすべて救われて神の子となった私達のものです。
もし私達が今日まで豊かに恵まれてこなかったとするなら、おそらく自分で神の恵みを無意識の内に限定していたからかもしれません。
どうやって限定していたのでしょうか。先ず私達の言葉で限定していました。
マルコ伝5章に12年間病気が治らないで苦しんでいた女の人の記事が出ています。良く読んでみるとこの女の人はイエス様の病を癒す力について言っています。
「『上着にさわることでもできれば、きっと救われる』と言っていた」
この女性は別の言い方も出来たはずです。「無理無理」とも言えたはずです。「長い間苦しんで来てもう死んだほうがまし」とも言えたはずです。
しかし彼女はその様な言葉は一切出しませんでした。そしてキリストの「上着にさわることでもできれば、きっと救われる」と言い、その言葉どおり彼女は救われました。
彼女は決して神の力を自分の枠に嵌めようとはしなかったのです。自分の頭で制限したりせず、無限の神の力を信じていました。それは言葉になって表れました。恵まれる秘訣です。
人生におけるすべての局面で神の恵みを制限しない。ここに恵みを受ける重大な秘訣があります。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」コリント後書6章2節下半句
P.S.
今ある自分の姿。それは過去に自分の口から発せられた言葉の表れです。2016.08.03