Cipresso of our church members

信仰と希望と愛

真理と思想

人の思想
日本は桜の花の時期にそろそろ成ってきました。皆様いかがお過ごしでしょうか。毎日毎日ハレルヤ感謝と主を讃美しつつ喜びと感謝に満たされておられる事と存じます。

先程ある若い兄にお会い致しました。
YAMAGUCHI兄と言いますが、丁度家内が末の子を出産するために入院した日、私が病院から教会に戻りますと信者さんから御電話がありました。
教え子を御救いに導きたいとの事で喜んで一旦は承諾したのですが、二十名近い人々だと言うのです。
さて家内がいない時にそんなに大勢で来られても、洗礼を受けるために着替える更衣室は2室しかないし、洗礼衣はどこにあるのか分からないし、うろたえてしまいました。
家内は主婦であると同時に副牧師です。普段は気付きませんが、いなくなるとその重要性に気付きます。それは本当の意味で大切なものです。

真理は普遍
最近自然が破壊され、景色が壊され人工的な建築物が増えて来ると、やはり自然は良いなあとおもいます。
今は世界中で自然破壊のニュースが取り上げられています。ヨーロッパでは近代デカルト主義の影響からか、自然を征服する事で人は豊かになれると思い込んで来た挙句、自然崩壊に至ったわけです。
人間の思想というのは実に浅はかなものです。そして時代と共に変化します。
しかし、真理は永遠に不滅です。それは不変のものです。たかが10世紀や20世紀で変わるようなものではありません。
聖書は永遠から永遠に変わる事のない神の言葉です。3千年、或は4千年保っているから聖書は奇蹟だとおっしゃる方もいますが、そういうものではなくて10万年経って、或は100万年経っても亡ぶならそれは真理ではありません。
永遠と有限とは全く別の次元のものです。聖書は神の言葉を永遠のものとしています。

「天地は過ぎ行かん。されど我が言葉は過ぎ行くことなし」

死の棘

死と共に去りぬ
先日他界された、作家の遠藤周作、別名コリアン先生は代表作に「沈黙」という傑作がありますが、それでも一世紀過ぎた時にその作品が読まれるかどうか、厳しいものがあるでしょう。永久普遍の言葉は人間には不可能です。

そのコリアン先生ですが、死を間近に感じたときある親しい女性に電話をして、「自分は死んだら一体どこに行くのだろう。死ぬのは恐い」とおっしゃったそうです。彼女はとにかく「そんなことは考えないのよ」と慰めるのが精一杯だったとのこと。

クリスチャン作家は世に多くいますが、その代表格とも言える大先生ですら救いに関してこのような貧弱な知識しか持ち得なかったのでしょうか。
私はそうは思いません。彼は聖書に習熟していたでしょうし、又神への信仰を持っていなければ、あれだけの文学作品を産み出す事は不可能だったでしょう。人真似ではなく彼独自の神観を文学的境地から見出した点は尊敬に値します。
しかしながら、彼も死後の世界までその考えが通用するとは思わなかったのです。

思想とは所詮その様なもので、死の前では完全に無力です。
死が近づいた時点で既に人はそれまで築いたものを失いつつある事を悟ります。それらは地上に残り、我らは去るのです。
一切は、死と共に去りぬです。

信仰と希望と愛
それは一度誰かの死に立ち会って見ると分かります。死の持つ絶対的権力が実感出来るはずです。
たとえ霊魂が救われて天国への運命になっている我々でさえも、肉体は未だ罪と死の法則の下にあるのです。
故に世の人と同じく死は肉体を襲って来ます。我々も地上の肉に属する一切を捨てて去って行かねばなりません。

しかし、救われている人には一つだけ残るものがあります。
それはイエスキリストが与えて下さった救いの保証です。
キリストによって、水と霊の救いを通じて贖われている事実だけが残ります。
この事実こそが信仰であり、それを可能としたのはキリストの愛です。そして私達の希望は肉体の死をもはるかに超えた所にあります。

信仰と希望と愛。
これだけが死後の世界までも通用する永遠に残る唯一のものです。

サタンからの思い
あまり長くは書けませんので、話しを元に戻します。
家内がいない教会に一度に大勢来られても私一人ではとても対応出来ません。神様どうしたらよろしいでしょうか、とお祈り致しましたら、川でするように導いて下さいました。

そのようなわけで、加治木には龍門滝と言う立派な滝があり、そこの川で洗礼式が次々となされました。
聖霊の導きは素晴らしいものです。
しかし一方で人間の頭も色々と道理理屈を言い出します。それは肉の思いです。肉の思いとは、つまり道理や理屈の事です。

そこで私の頭はどのように言ったかといえば「教会ではない場所で洗礼を受けたこの人達は果たして教会に来るだろうか。たぶんそれっきり教会の事は知らずに別れて行くだけではないか。もしそうなら教会の発展はないではないか。」

しかし、聖霊から来る思いは「教会に来ない人には洗礼をしない、という考えはサタンが持ってくる」というものでした。その時はイエスキリストの御霊が導いておられるのだからハイと従えばよい。かくして龍門滝の下で次々と洗礼式が行われました。すべて神の御業です。

信仰は人を育てる
その時の学生のリーダーがYAMAGUCHI兄でした。
不思議にも彼はその後、あの時救われた友達を何名も連れて教会に来られました。
今年は高校を卒業するので進路の事をお祈りしたいという事でした。
その後様々な神様のお証しが与えられて今日まで兄が教会生活を保っているのは大変うれしい事です。

ある時、YAMAGUCHI兄は友人に福音を語った事をお証し下さいました。
その友人は今年自衛隊に就職が決まったのですが急に足首の靱帯を怪我して、ギブスをはめるようになってしまいました。しかし今月27日は入隊式です。本人は大変に悩んでいました。
YAMAGUCHI兄はその方に福音を語り、又一緒にその問題の為にお祈りを致しました。
そうしたら翌日に自衛隊の方から連絡が入り7月に入隊式がもう一度あるからあなただけは今回ではなくて、7月に入隊せよとの命令です。
そんな事があったんですかと聞くと、今までそんなことはなかったし、これからもない。只今年だけあるのだ。と言われたそうです。本当に神様が祈りに答えて下さったと二人は大感謝したそうです。

これらを通してYAMAGUCHI兄の信仰を神様は養って下さいます。これも兄がイエス様を崇めているからなされることです。
私達も人を頼りとすることなく真の神、イエスキリストを崇めて歩んで参りましょう。
世には自分の思い通りに動く人がそばにいなければ落ち着かない人もいますが、要するに自立出来ない人です。

真の信仰さえ持てば人は自然と自立出来るものです。一人で歩んで行くならそこに人はついてきます。
信仰は正しく人を育て、愛と希望によって自立と成長を促すものです。

兄もこれから進学就職と社会に歩み出しますが、素晴らしいのは神に救われて育てられている事です。人に頼ることなく神に寄りすがる事を学んでいる事です。
新たな一週間もどうか神に依り頼む事を忘れずに信仰に立ってお進み下さい。ハレルヤ

1997年3月22日安息日礼拝メッセージ

By Shinichi Uema
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