(アーカイブ説教集 2000年7月15日礼拝メッセージより)
WORDS
さて、2000年になり物事が大変な速さで変化しています。特に教会です。教会はまず主イエスキリストを礼拝する場所です。しかし水と霊のバプテスマを受けていなければ真の礼拝は出来ません。となれば水と霊を受ける方が先決です。
礼拝と水と霊とは繋がっています。聖書ではマタイ伝12章37節:
「あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」
「あなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、罪に定められるのも、あなたの言葉によるのです」
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」
上の3つの聖句はそれぞれ違う日本語訳聖書からです。
英語の聖書を見ると「言葉」が複数形になっています。つまり「WORD」ではなくて「WORDS」と書かれています。
“Your words will be used to judge you―to declare you either innocent or guilty.”
“For by your words you will be justified, and by your words you will be condemned.”
上記は2種類の英訳聖書から同じ聖句を抜粋しています。「WORD」と「WORDS」の違いに注意して下さい。
WORDS「言葉」(複数形)は普段から大切なもので、これがなければ生活は困難です。同時に「言葉」は私たちを守りもし、破壊もします。また癒しもし、病気にもします。聖書によれば「言葉」は私たちの人生を健康にも幸せにも、またその反対にもします。
言葉の訓練
マルコ伝11章23節:
「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」
「自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおり(自分の言うとおり)になる」と言っています。短縮すれば、「自分の言うとおりになる」です。
もし病気が癒されないので教会に行くのは止めようと考えている方がいらっしゃれば今一度聖書を読んでみて下さい。お仕事の問題でもお金の問題でも同様に。そして聖書の指摘する「言葉の秘訣」に気付いて欲しいと思います。または「信仰の言葉の秘訣」とでも申しましょうか。
「言葉」は自分の生活のみならず他者の生活にも大いに影響を及ぼします。家族や夫婦間でも「言葉」の故に一日の居心地が良くなったり悪くなったりします。そしてこの「言葉」を上手に使える人は少ないです。達人となれば極々まれです。ですが巧みに言葉を操って詐欺などの利己的な悪しき方向へ向かう人がいるのも事実です。逆から見れば悪い人には「言葉」を巧みに操れる達人が多いのも事実です。
私たちは勿論良い人々の集まりですが、良い人々の故に言葉の操作にあまり関心を持たないという事もあります。つまり悪しき人というのは他者を操作しようと常に考えています。その結果言葉の操作が巧みになるのです。
しかし良い人であっても「言葉」に対する無頓着は大袈裟な言い方をすれば罪を招く元凶となりかねません。はっきり言って神を信じる人は「言葉」を有益に働かせる学びが必修です。訓練も必要です。信仰と希望と愛によって発する「言葉」の訓練です。
おしどり夫婦
かつてある人の家にちょっとした用事で立ち寄りました。奥様は台所に居り、ご主人は食卓に座り、私はソファに腰掛けていました。見えるところは何も変わりばえはしなかったのですが、いつもとは違う何か硬い空気を感じました。そしてそれは硬い「言葉」がそこで発せられた証拠でした。
用事も済んだので私は帰りたくなり、早めに失礼しようとしました。その時ご主人が私を引き止めたのです。おっしゃるにはつい先程妻と口論になり、思わず自分が缶ビールを壁に投げつけ,それから妻は黙っているとの事。それを聞いた奥様は言葉巧みに御自分の意見を述べられました。
社会的にはおしどり夫婦で通っているご夫妻でしたが、内情はいろいろとあるのだと知り多少驚きましたが、いずれにせよ私は介在すべき者ではありませんので、早々と引き上げました。
環境としての言葉
霊の世界は「言葉」によって成り立っています。物理的な世界でさえ「言葉」で成り立っているのですからなおさらです。私が感じた硬くて重い空気は、そこで少し前に発せられた硬い「言葉」によって成り立っていました。その「言葉」がまだ空気中を漂っていたのです。
実在する「言葉」は環境であり、私たちの周囲を取り巻くものです。論より証拠、テレビや短波ラジオをつければ「言葉」が流れ出て来るでしょう。「言葉」は空中を走る電波に乗って地球の裏側からでも来ているのです。
その時の空気は重かったですが、もし幼い子供がそんな空気の中で毎日生活していたなら影響を受けないはずはありません。特にお子さんを持つ家庭はその事を認識すべきです。その家の雰囲気は「言葉」のもたらす副産物なのですから。
子供の問題について子供の事を論議する前に、その家の中で使われている「言葉」について論議すべきと思います。大人達の「言葉」はまさに子供達の環境そのものです。立派な勉強部屋とか食事などがそれに優先する事はないと思います。教育と言っても子供を養う根底にあるのは「言葉」のはずです。
信仰のロバ
信仰の世界も同じ事が言えます。もし信仰的考え方が間違っていれば、「言葉」からそれが判断出来ます。「言葉」を正しくする事で考え方も正しくなります。信仰的考え方が間違っていれば「言葉」も間違っているからです。
教会が好きな子供達であっても、普段は教会の空気ではなく、家庭の空気を吸って育ちます。もし家庭の空気が良くないなら、他のどんな良い空気も役に立ちません。
信仰の人とは一体どういう人でしょうか。教会に行けばその様な人と出会えるのでしょうか。
教会で熱心に祈りと讃美を捧げていれば信仰の人に見えるでしょうが、実際にはそうではありません。勿論それが悪いという事ではありません。ただそういった外見からは判断が出来ないという事です。外見のみならず、たとえ信仰的アドバイスに優れていても、はたまた素晴らしいお説教をして神に用いられても、そういう事が出来るから信仰の人とは決して言えません。
聖書には神がロバを通して語った記録があります。民数記22章23節‐30節:
主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。
主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。
ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。
主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。
ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。
主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」
バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう」
ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか」彼は言った。「いや、なかった」
聖書にはロバが神からのメッセージを受けて予言者バラムに伝えた記録がありますので、どんなに私たちが立派な神からの言葉を語ったとしても、それがその人を信仰の人だと判断するわけにはいきません。もしそうならあのロバは信仰の人ならぬ、信仰のロバになってしまいます。しかし実際はただのロバです。
信仰即生活
先日世の教会に長年通っているという中年の男性に会いました。彼は自らの事を日曜信者と呼んでいて、その意味は日曜日教会に行く時のみクリスチャンだからという解説付きでした。
勿論信仰の人は主を礼拝をする為に教会に行きます。しかしもし私達が本当に信仰の人を探そうと思うなら、教会に行くのではなくその人の自宅に行くべきです。
よくよく考えてみると、信仰の人は、自宅でこそ信仰の正道を生きていて、教会ではないはずです。
結局、「自宅で信仰を持たずに、神の祝福を授かる道はない」という事です。
言われてみれば、信仰は日々の生活の場で働くものですから当然です。
しかし当然と思っている事が最も気付き難い事です。
それゆえ日々の生活の場に於いて意識して、愛と信仰と希望の「言葉」により周囲に人間関係を含めた良い環境を築きましょう。