世の中にある定番の問答に、デザインとアートの違いというのがあります。皆さん何となく分かっているにも関わらずはっきりとした答えはどこにもありません。百人に聞けば百の答えが返ってくるはずです。似たような答えはあるでしょうが、全く同じ答えは出ないかも知れません。
同じ感覚を共有しながらそれぞれが違った回答を持っているというのはヒューマンな感じがしておもしろいです。
前回のエッセイを書きながら私なりに思ったのですが、機能とフォルム(形)の両立を目指すのがデザインなのであれば、フォルムがその境界線を乗り越えて機能を無視しても許されるほどの形を生み出したならたぶんアートになるのでしょう。
では機能を無視しても許されるほどの形はどこからくるのか。それは意味のない形から生まれるのではないでしょうか。
意味のない形とはたとえば日常でのおしゃべりです。挨拶からはじまり、むかしからある井戸端会議、友人同士が集まってワイワイガヤガヤ、そこでは意味のない、たわいもないおしゃべりが主になっています。ただ皆がその場の心地よい空気感を共有出来ればそれでよいのです。
ですからそこではあまり意味を持たない言葉というのが重要な役割を果たしています。
「おはようございます」と言われて「はやいと言われたけど今はもうはやくないぞ」などとその意味を考える人は誰もいません。
「こんにちは」と言われて「今日は、の次にこの人は何を言うのだろうか」などと誰も考えてはいません。
また「いいお天気ですね」などの意味のない言葉を無視すると世の中はうまく回りません。逆にいつでもどこでも意味のある話だけをしようとする人は胡散臭いと思われてしまいます。
要するに何のたわいもない言葉を交わした時生じる安堵感の必然性を誰もが認識しながら言葉で説明出来ないのです。
しかしアートはそれを可能とします。よくアートを見て意味が分からない時がありますが、それでいいのです。それはデザインの胎盤であり、意味を持つ形が生みだされる母体なのだと思うからです。
故にアートはデザインに先立つものでしょう。意味なきアートなくして、意味あるデザインは生まれない。それが私のささやかなる考察です。
ではたわいもない日常のおしゃべりからは何が生まれるのでしょうか。
それは何かに気づく事だと思います。「気付き」は意味なきおしゃべりから生まれる最大の利益だと思います。
自分への「気付き」は真の意味で自分を「築く」柱です。
今自分が何を為すべきか、或いは何を為さざるべきか。もし意味のない形からそれが見えて来るなら、アートの機能越えは大いに許されて然るべきです。
アートの力には実に偉大なる役割が秘められていると思うのです。