Cipresso of our church members

哀歌の向こうに

2000年2月5日礼拝メッセージより

美都子監督召される
今週は教団にとって大変な出来事がありました。それは教団監督である村井美都子先生が急に召されたとの知らせでした。
この知らせは全世界のイエス之御霊教会に大きな衝撃と動揺と共に伝えられました。

村井美都子先生と言えば、98年5月に教団の第3代目監督に就任したばかりでした。わずか1年8ヶ月で天に召されて行くとは誰も予想出来ない事でした。

重責の故に
思えば初代監督の村井純先生も教団全体の重荷を負って倒れたのが1970年。後を継いで70歳で監督に就任された村井スワ先生は28年間重荷を背負ってその任務を遂行されました。
そしてスワ先生の良き助けとして美都子先生は28年間傍で支えて来たのですからその後監督に就任してわずか2年あまりとは言え実際は30年間の激務に耐えて来られたといえます。
診断は急性心不全との事ですが、文字どうり信仰の善き戦いを戦い抜いて燃え尽きた御生涯でした。今はパラダイスで主イエス様の御許に安らいでおられる事でしょう。

別れの波音
私は知らずして、監督先生が召される1週間前に個人的にお会いさせて頂きました。今にして思えばそれは最後のお別れであったのです。御体の具合が少し弱っていらっしゃると聞いておりましたから、用事を済ませて早く帰ろうと思っていました。

応接室でお祈りをして頂いた後、食事の用意をして下さったので、私は一人で頂戴して勝手に帰りますと申し上げたのですが、監督先生は席を動かずご自分も茶碗蒸とイチゴを取って終始にこやかに歓談しつつ一緒に召し上がられました。
少し底のある皿に綺麗に並べられたイチゴにミルクをかけますかと給仕をして下さっている学院の先生から聞かれ、私は「いいえこのままで」と返答しました。それを傍で確認するようにしてから監督先生は自分には少しミルクをとその先生に告げていました。少し意外に感じたのですが、それは監督がイチゴにミルクをかけて召し上がるのをそれまで見た事がなかったからでしょう。

状況をあまり詳しく書けない事もありますが、すべてにおいて行き届いた配慮と細かな気配りは私の到底及ばない世界であり、今にして思えば決して楽な身体の状態ではなかったでしょうに表面には一切表そうと為さいませんでした。
しかし私はあまり長居はすべきでないと思いイチゴを食べ終えて立ち上がりましたが、監督も立ちあがって再び私を座らせ紅茶とケーキを持って来るまで待つ様にと言う事でした。

そこでいろいろと話をし、時には沈黙が流れ、又どちらからともなく話が始まり、再び間が入る。沈黙の間は決して重苦しい類ではなく、反対に交響曲のメヌエットに時々現れる大きなルフトパウゼ(間)の様な、緩やかで滑(なめら)かな心地よい波音の様でした。その余韻は帰宅した今なお消え去っていません。

設立祭に与えられた聖言
さて、あまりセンチメンタルに書き続けてもなりませんが、今日オークランド教会の設立祭の為に出す案内状が印刷を終えて届きました。
監督美都子先生が召される前に作った原稿で印刷しております。目を通すとそこにプリントされた聖言が身にしみます。

「神の為したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり。神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり。然ば人は神のなしたまふ作為を始より終まで知明むることを得ざるなり」(傳道之書 第3章11節)

あまり前例のない長めの聖句なので、副牧師は最初の1行目だけにしたらと言うのですが、3行目まで神に示された御言葉だったので、全部を載せねばなりませんでした。

なぜ急に、どうしてこんなことが。これはすべての牧師の思いであったはずです。しかし、私達は神を恨むべき者ではありません。神は善にして善を行う。今後の教団の行く末は如何に。との思いもありますが騒ぎ立てる人は一人もおりません。

哀歌の向こうにある希望
信仰で見るなら、「神の御計画と神の御業」そして「後悟らん」と言う初代監督の言葉を思い起こします。今はただじっと希望の光りが与えられんことを祈っています。
イスラエルが占領され国民はすべて捕虜となって敵国に連れ去られて行った、あのバビロン捕囚の時の予言者、エレミヤの言葉が思い起こされます。
その予言によればこの失意のどん底からでも必ず神は私達に光と望みを与えて下さるとあります。神の証は必ず来ると。
私達は与えられた福音によって、自分の内側にある平安に目を向け、気落ちすること無く前に向かって歩んで参りましょう。ハレルヤ

エレミヤ哀歌3:15-33
主は私を苦味で飽き足らせ、苦よもぎで私を酔わせ、 私の歯を小石で砕き、灰の中に私をすくませた。
私のたましいは平安から遠のき、私はしあわせを忘れてしまった。
私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた。」と。私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。

私はこれを思い返す。
それゆえ、私は待ち望む。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。

それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。

主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。         

By Shinichi Uema
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