Cipresso of our church members

嫌われる勇気

岸見一郎著

朝から少し肌寒さを覚えますが、
昼から晴れ間が出るとの予報です。
昨日は南日本美術展にて信者さんの作品を拝見出来感謝でした。

課題の分離とは何か。
「問題」とは、あるべき理想の姿と現実との開きです。
対して「課題」とは仕事のことで、その開きというかギャプを縮める為,

今するべき仕事や行動などの事です。
希望と信仰の違いみたいなものかも知れません。
岸見一郎さんによれば、

たとえば、勉強をしない子がいて、
親は一生懸命に手を尽くすわけで、
熱心のあまり宿題終えるまでご飯にしないとか、

そうやって勉強しても
果たして勉強が好きになるかどうかは別でしょう。
いずれにせよ、この場合「勉強」という課題に対して

心理学者のアドラーはまず
「これは誰の課題か」
と問いかけます。

この場合は「子の課題」であって
「親の課題」ではないのは明らかです。
その証拠に親が代わりに勉強してあげることが出来ません。

こうして自分の課題と他者の課題を分離します。
分離してから守るべきルールは一つだけで、
「他者の課題に踏み込まない」です。

考えてみれば、あらゆる紛争は国境線で起こっています。
移民に扮して侵略する歴史は繰り返されます。
同じく人間関係に於いては、互いの心の地境を侵し合わないルールが大切です。

最も単純に誰の課題かを見分けるには、
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」
(岸見一郎著「嫌われる勇気」より)

もし、その子が勉強しない、を選択すれば
字が読めない、本を読んでも理解が出来ない、メールも打てない、
などの結末を最終的に引き受けるのは親ではなく、子です。

ならば、この場合「勉強」は子どもの課題となります。
なので子の心配をする親は勉強しろと言っているのですが、
たまに親も見栄を張りたい気持ちから言うときもあるわけで、

ところが子は親が思っている以上に賢くて
俊敏にして親の気持ちを見透かすところがあり、
余計に反発するので、問題は泥沼化しかねません。

かと言ってアドラーは放任主義を推奨してはいません。
放任主義とは子に対する無関心で今では一種の虐待とされます。
よく言われるのに愛の反対は無関心というのがあります。

たとえ子が気付いていなくても
逐一子どもの行動を把握して、見守るのは、
あたかも立っている木を見ている様で、

実際「親」という字はそこから来ています。
そして子どもが勉強をしたいと思った時、
親の後方支援がいつでもあるとさえ知っていれば良いわけです。

諺にあるように、「馬を水辺に連れて行けても、水を呑ませるのは出来ない」
と同様に、自分を変える事が出来るのも自分だけです。
ここから先は長いので、本書をお読み下さい。


By Shinichi Uema
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