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常道的祝福

(アーカイブ説教集 1998年5月30日礼拝メッセージより)

戦後の教会発展
さて、先週はインドネシア情勢を見守りつつも少しインドネシアイエス之御霊教会の事について触れたのですが、話しが外れてイエス之御霊教会教団の起源についての方向になってしまいました。

いずれにしても先週の安息日礼拝までに事態は終結し、大きな変革がインドネシアに於いて成されつつあります。これらもすべて現地にイエス之御霊教会が建てられたからだと言っても過言ではありません。いや断じてそうだと言いたいのです。
このように言うと一般的には何を我田引水の如く、と文句を言われそうですが、私は約16年に渡ってインドネシア教会のパルリアン先生と関わって来ていますので、そこで成されている神の御業を見て言えるのです。
そして、そろそろ国が変わる時ではないかと教会の視点から察していました。また関東大聖会でインドネシア教会の牧師、パルリアン先生とたまたま同じ旅館に泊まっていまして、現地の教会の様子も詳しく聞く事が出来ました。

イエス之御霊教会のある所は必ず栄えて行きます。国も栄えます。日本が良い例です。
戦後イエス之御霊教会はまだ日本に2ヶ所しかありませんでした。総信徒数は僅か百名程。しかし信徒数は日ごとに増し加えられ今や昨年の統計で信徒総数67万8千666人を数えるまでになりました。教会数は226ヶ所。牧師は332名。今や日本の全キリスト教会で第2位の大教団です。

またイエス之御霊教会の発展と日本国経済の発展とは驚くほど比例しています。特に80年代に入って多くの人々がイエス之御霊教会に来られて救われました。その頃の日本社会は石油ショックなどがあり、日本列島がパニック状態に陥ったものの、多くの人々がイエス之御霊教会を通じて福音に与り礼拝に集って神の恵みを感じ始めてきました。
70年代にもドルショックと言うのがあって日本は窮地に追いやられたのですが、このころから教会に集う人々は倍増してきました。

私はもともと教会で生まれ育った為に、教会の動きを見ながら同時に学校では社会の動きを学んで来ていますので、日本経済の成長と教会の成長とを必然的に関連させて見てきました。
一般的に解釈すれば、日本の経済が成長して人々は豊かになったのだから生活にゆとりが出てきて文化的な事の一つであるキリスト教に触れる人々も多くなり教会に来る人々も増えたとなります。それは非常に妥当で合理的推論なのですが、しかしあくまでも後から説明した理屈に過ぎません。その時その事実を目撃した証人が無ければただの推論です。

私から言わせると、ある危機がおとずれる度毎に教会に救いを求める人々が増えてきたのです。つまり国が豊かになってから教会に来る人々が増えたのではなくて、その少し前に国の危機なるクライシスが襲って来た時に人々は教会に来たのです。私はこの事実を見てきた証人の一人です。ここに少し時間のずれがあります。つまり世間一般が考える様に経済が豊かになってから人々が教会に来だしたのではなくて、危機感を覚えた時に教会に来た。その結果、国の経済が安定し回復発展を遂げたのです。

日本の国が戦後ここまで栄えてきたのはイエス之御霊教会があるからだと言う理由はここにあります。聖書に書かれてある安息日礼拝は土曜日ですが、それを守っている教会はほとんどありません。言ってみればイエス之御霊教会のみです。
しかし、聖書に書かれた約束を守る時、そこには神の立証があります。
安息日礼拝の御約束の一つに「ヤコブの産業をもって祝福する」という言葉が出てきます。安息日礼拝の中で文字どおり人々は神からの祝福に与り結果として産業が栄えていきました。自営業であれ、会社員であれ聖書に登場するヤコブと同じ祝福を受けた人々が社会に進出していけばどうなるでしょうか。国の経済が栄えていくのは間違いありません。日本は過去何度かの危機に遭遇するたびに切り抜け、むしろ逆に栄えて来ました。それは安息日礼拝の祝福を受ける真の教会があったからです。

ドルショックの時も悲観にくれる多くの人々がいましたが、信仰的に見れば歓迎すべきで、その時から日本は1ドル360円の固定相場の呪縛から逃れて変動相場になり、海外への渡航もより自由になりました。これは世界伝道に向かう祈りの答えでありました。

敗戦の時も同じく多くの人々は悲観にくれましたが、その時から日本は信教の自由なる憲法を得て、妨げられずに福音を証し出来る様になりました。これも祈りの答えです。一見すると祈りと真逆が起こってるように見える時がありますが、そうではありません。祈りは答えられたのです。

常道的祝福
初代監督村井純先生は1970年に召天されましたが、その2年前に書かれた手紙が残っていますので引用します。これは当時各教会に宛てられたものです。

「いずれの教会も信徒や献金が倍加されたという状態は、之れ平和の神、即ち秩序による常道的祝福があったからであります。天界も地界も最も大事な事は神の秩序であります。悪魔の狙いはこの秩序を破りこの世を混乱に落とし入れんとする事であります。我等はこの悪魔の器にならず、恒に敬虔なる思いにて神の秩序を守り、恒に常道的祝福の中に前進して行きましょう。」

これを読むと1968年の段階で各地のイエス之御霊教会に集う人々が倍増している様子が伺えます。その後日本経済の著しい成長があるのです。

しかし危機は再び訪れます。教会では80年代初頭、新しい波が来て人々が再び教会に増え始めます。加治木教会スタート時点の約20名の信者方はすべてこの波で救われた人々です。そしてご存知の様にその後日本は戦後最長の好景気を迎えます。

この先書きたい事は山ほどあるのですが、今は割愛します。
さて、村井先生の言葉に「常道的祝福」(じょうどうてきしゅくふく)とありました。この事について少し触れて終わります。村井先生が書かれた別の文書の中で、常道的祝福に関しては以下の如く定義しています。

常道的祝福とは、己が信仰、己が努力等によらずして、唯主に従う事によって賜る祝福の事である。(中略)聖書にはいろいろと約束があり、また教会には、いろいろな特権が置かれてある。これらに起因して来る祝福を、常道的祝福というのである。(村井純著 聖書神学第11章より)

最も陥りやすい欠点
簡単に言えば聖書には神の約束が書かれています。喜んでそれに従うと祝福を受けていくという事です。
例えば聖書に安息日を楽しみの日としていきなさいとあれば、その如く安息日を喜び楽しんで行きますと、神の祝福をうけていきます。更に神の不思議な御業があらわされてきます。
ところがそうなった時に多くの方々はすぐに自分と結びつけて、自分が良く祈ったからとか、自分が信仰があるからとか、自分が努力したから神が奇蹟を行ったとか考えたいわけです。

つまり自分を一般人と違った特別な人間として持ちあげたいのですが、実はこれが宗教をしている人の最も陥りやすい欠点です。世の中でも急に宗教に熱を入れだし始める人がいますが、他で卯建が上がらないので何か自分が賞賛され特別扱いして貰える場として宗教の世界を選んでしまうのです。勿論その心理を狡猾なまでに利用している宗教があるのも事実です。しかし利用される人にも問題があって、たとえば人生をすべて勝ち負けで判断している人などが引っかかりやすいのは事実です。

教会に在る特権
正しい教えは少なくとも人を成長させようとする方向にあります。成長すると人は物事を勝ち負けで判断しなくなります。なぜならそれらに支配されないからです。いちいち一喜一憂しなくなるとも言えます。勝ち負けに意識が向かなくなり、それよりも形に意識が向けられます。自分としての形、人としての形、我らの模範としている主イエスキリストの形に少しでも近づこうと、そこに愛の完成形としてのキリスト姿を見、主に似る事をもって、主の如くなるを良しとするのです。

何かに取り憑かれた様に熱心になる人は決して信仰熱心なのではなくて、信仰熱中なのです。熱中するのは何か辛い事から逃れたいからです。こういう人がおかしな宗教にのめり込んでしまうのは、何かに熱中するのが目的だからです。対象となる宗教や教えが見えないし見ようともしません。よって騙されている事にも気付きません。
熱中している間は他の事を一切思わなくていいので、それが開放であり、快感に思えています。滝に打たれ、座禅を組み、傍から見て辛い修行に耐え得るのも、他者に意識を向け他者を愛し、自ら成長する道を歩むよりも遥かに楽だからです。そのうち自分は他者から解離された聖人だと思い込んだりします。こうなるとすでに病的で、もし自分へのコントロールを失ったら、解離性障害という病名がつくことになります。不幸にしてこうなってしまった宗教指導者でさえも過去数えきれないくらいいます。

でも神はそうなる事を願っていません。そうならないために聖書にいろいろな約束が置かれています。教会にもいろいろと特権が置かれています。だから自分の上に特別な神の働きがあったとしても自分が特別な人であるとの理由からではないのです。
この約束と特権によって得る祝福が常道的祝福と呼ばれるものです。
ですから例えば安息日に礼拝を守る事は義務でも使命でもなく、我々の特権です。

神の定めた秩序
この特権を用いる自由を守る為に必要な事があります。それが村井先生も指摘されている「秩序」です。簡単に言えば礼儀とか道徳です。先の特権は教会に置かれていますが、例えば教会が道徳や礼儀を軽んじてしまうと崩壊する危険があります。もし教会が崩壊してなくなると私達はこの常道的祝福に与る事が出来ません。
一切万事について神は教会を通して導きと解決を与えているのが今の時代です。又牧師に祝福を祈って貰う事によりイエス様が働きます。つまりこの人間社会に於いて繁栄していくためには常道的祝福が必要であり、それは教会を通して受ける事が神の定めた秩序という事です。教会の他に救いなしとはその意味です。

さて、これらの事はどうしてもインドネシアと重なって見えてきます。今後インドネシアが大変な経済成長を遂げるであろう事も見えて来ますが、それはすべてそこに真の教会があるからです。
私達もこの教会に置かれている特権を感謝し、聖書の約束に喜んで従い前に向かって主イエスキリストと共に歩んで参りましょう。

By Shinichi Uema
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