(アーカイブ説教集 1997年6月14日礼拝メッセージより)
社会は変わっても
鹿児島は梅雨の真っ只中で、お天気になっても湿気が強くべたべたしています。おりしも水田では田植えが始まりました。このごろは住宅が回りに建ちはじめ、水田も段々と狭くなって来ましたが、それでもまだ見渡す限り視界の半分が水田です。
日本は稲作の国だと改めて感じます。外国にいくとやたらと芝生が目につきますが、芝は稲科の植物ですから田植えの終わった水田はまさしく日本の芝生とみまがう、緑一色の水田はなんとも圧巻です。しかもそれらは夏から秋に向けて趣を変え色を変化させ収穫されて食物となります。
この辺の稲は私の郷里と品種が違うのか黄金色とまではならない様ですが、私の育った関東では秋になるとまさしく黄金に輝く稲穂が現れます。
最近隣の国分市で約1万年前の日本最古の集落跡が発見されました。稲作もすでにあったようです。あちこちから多くの見物客が訪ねて来ます。私もこの夏には見学に行きたいと思っています。
日本には大昔から人が住んでいたようで、あちらこちらにその歴史の跡が刻まれています。この辺りでもつい先日まで道路工事をしているなと思ったらいつの間にか遺跡調査に変わっています。少し掘れば何か出てくるのでしょうか。あまりそれにこだわっても都市計画が思うように進まないと思うほどです。開発と保存と相容れない関係が続きます。
しかし私はそんなに開発する必要もないと思うのですが。最近教会前の前に何か立て札が立ちました。側には昔からあると思われる1メートル程の高さの石があります。立て札にはその石の説明書きがありました。それによると、教会の前にある道は昔は隣の重富町に通じるただ一つの道だったようです。昔は馬車が往来していたいわゆる幹線で、その石は停車場の目印だったようです。以前その石が目障りになって引っこ抜いてしまおうかと思ったのですが、勝手に触らないで良かったです。
昔の人々の生活を思うと、今でも人間の性質はあまり変わっていないのかも知れません。つまり1万年前の人も現代の人も感じる事も考える事もほとんど変わってないと言う事です。社会や技術は変わっても、人の中身は変わっていない。そんな感じがします。
人の自由意志
先日初めて教会に来られた方からご相談を受けたのですが、家族を持っていながら、不倫をしているとおっしゃいます。ご本人は亭主と別れて不倫相手と一緒になろうとも考えているそうです。
本人は至って真剣なので私もまともに聞いていましたが、心に何か引っ掛かりを感じて、一体私に相談したい事とは何かを尋ねました。この何か引っ掛かりなる違和感を私は常に重要な徴と感じています。信号で言えばこれは赤信号もしくはその手前の黄信号です。そしてこれは救われた神の子たちが全員持っているはずのものです。
信仰の世界、神の住む所には自由があります。もしこの自由を知っていれば、反対側にある束縛も敏感に感じ取れる筈です。何かが違っている、変だと感じたら、それが自分を束縛するものかどうかよく考えるべきです。もしそうなら、それは神から来ているものではありません。
個人的な話ですが、押し付けがましい人がどうも苦手です。嫌いというより、苦手です。親切に見えて、実は他者をコントロールする意図の強い人です。宗教指導者に多く、まさしく人を束縛するタイプで私もそうならないように気を付けたいと思います。
聖書は他者への支配権を認めていません。つまり人が人を支配する事は出来ません。悪魔を支配出来るとは書いてあります。しかし人間の自由意志を支配出来るとは書いてありません。驚くべきかも知れませんが神にもそれが出来ません。
しかも神は人の自由意志を支配しようとはせず、ただ尊重しておられます。どのくらい尊重しているかと言えば神自身の意志と同じくらいにです。言い換えると、人は神と同等の自由意志を与えられています。
その結果、神は人を自分の足で歩く様に創造されましたが、どこに歩いて行くかは人が決めるのです。神に求めるかどうか、神を信頼するかどうか、神の祝福を受けるかどうかもすべて人が決める事でそこに神は一切関与出来ません。たとえどんなに素晴らしい祝福であったとしても神は誰にも押し付けないのです。もしそんな事をすれば、人間に与えた自由意志を神自らが破壊する事になってしまいます。
自分のソフト
さて話しを元に戻しますが、何か心に違和感を感じるこの人に対して、私は途中で話を聞くのを中断し御相談の内容を確認しました。私の感じた違和感とは紛れもなく一種独特の押し付けがましさで、なかなか表現が難しいのですが、虚言癖と虚栄心と強引さがミックスした様な世話焼き型です。決してその方を批判しているわけではなく、嫌悪感を抱いたわけでもありません。その方自身も無意識のうちにしている事です。ただよく馬鹿な男が捕まるタイプです。皮肉な事に彼女の自己中心から出た世話焼きを愛と受け取る男性がいるからです。そこで私はもう少しこの方について知る必要があると思いました。
聞けばこの方は関西のご出身で、幼いときからキリスト教の教えで育ったそうです。この世の教会です。それを聞いて私の中の混乱が大分整理されました。バプテスト教会だったそうですが、はっきり言ってまともに育ったとは言えません。幼児期に必要とする何かが欠落していた思われます。欠けていたというよりも、別の物を入れられた可能性があります。宗教がよく犯すこの間違った教えの恐さを改めて感じました。もし私にそのインプットされた過てる教えが分かれば、彼女の抱える根本的問題は解決出来るかも知れません。もし彼女がそう望むならば。要するに彼女を変えられるのは彼女本人です。
人間は頭の中にどんな教えを持っているかが重要です。教え考えのソフトです。このソフトの部分はコンピューターの場合、自分で選ぶ事は出来ません。しかし人間は自分で自分のソフトを選ぶ事も中身を修正することも可能なのです。
危険なエロス
さて不倫の件に戻りますが、彼女は今のまま家庭を保って行くか、別れて不倫相手と一緒に成るか。さあどっちだ、と私に問うている様にも、決めさせているようにも聞こえる話しぶりです。教会生活の無い方が良くする誤解はこういった占い師と何ら変わらない見方をする事です。牧師と聞いても知識がありませんからそれも致し方ないでしょう。
対して私は大体次の様にお答えしました。
別れる別れないはあなたの自由ですから、あなたの人生の選択に私は関与しません。ただし、あなたが今している事は戦前までは犯罪でした。でも戦後は民事責任のみになって刑事責任は問われません。法律は変わりましたが、人間の気持ちと言うのはそんなに変わっておりません。言ってみれば昔から同じです。しかし「私は彼を愛しているし、彼も私を愛している」と彼女は言いました。「それは愛とは言えない」と私は答えました。
少なくともそれは聖書に出てくる愛ではありません。愛とはギリシャ語でたくさんの言葉がありますが、彼女の愛はただ奪いあう愛で、彼を愛しているというより彼の体を愛しているだけの様な気がしました。おそらく彼の方も同じでしょう。このような愛はギリシャ語でエロスと言いますが、聖書には1ヶ所もエロスという言葉は使われていません。なぜならそれはギリシャの偶像神の名だからです。これがローマになるとキューピットなる偶像神に変化します。
雅歌/愛の美
しかし聖書は決して男女の肉体関係を否定しているわけではなく、夫婦に於ける肉体関係を結婚として肯定し讃美しています。ただしエロスという言葉は使わず、ソロモンの雅歌などでは詩の形で夫婦の肉体的愛の美を歌い上げています。
愛は犠牲の上に
実際聖書の説く根本的愛は神の愛であって、ギリシャ語ではアガペーです。
彼女は世の教会で聖書の根本思想とも言うべき愛について学びながら、実践しているのは愛とは言えない愛、つまりエロスです。ですからこのような間違いを教えている教会を世の教会と呼ぶのです。世の中の快楽のみが満ちている教会です。
私は話しを続けました。「確かに今の時代に於いて刑事罰はありません。しかし1つだけ言えることは、この恋愛は大変危険な恋愛になるでしょう。命懸けの恋愛ですよ。あなたの夫が、子供達があなたを恨み、危害を加える事も十分に予想されます。それでもあなたはその人と一緒にやって行かねばなりません」
聖書は次の様に言っています。
火をふところにかきこんで/衣を焼かれない者があろうか。
炭火の上を歩いて/足にやけどをしない者があろうか。
友人の妻と通じる者も同様。彼女に触れれば、罰せられずには済まない。
(箴言第6章26節~28節)
そのあたりまで言うと彼女は一瞬神妙になり、分かりました、私はこの不倫を止めます。とおっしゃいます。だから言わんこっちゃない、これは愛とは言わないと言いますと、彼女は「では愛とは何ですか」と質問します。
彼女にあまり多くを語ってもわからないと思い、私は「愛とは犠牲の上に成り立つものです」と言いました。「あなたはこの人と一緒になりたいとは思ったけれどそのための犠牲を払いたいとは思わなかった。彼も以前あなたとの間に子が出来た時に手術の為のお金はくれたけれども何ら精神的犠牲は払わなかった。むしろそれを逃れる為に金を払ったに過ぎない。だからお金をくれた事に対しあなたは彼の愛だと受け取ったけれどもそれは決して愛ではないでしょう」彼女は意味が良く分からないようでした。それもそうでしょう。世の教会で頭が汚染されてきたのですから。
アガペー/神の愛
イエスは我々の受けていた呪いの為に身代りとなって十字架にかかって下さいました。十字架の死を通して私達の呪いをすべて自らが背負って下さいました。ですから私達がそれらをもう背負う必要は無くなった。というのが聖書の教えであり、福音です。カルバリの丘のあの十字架上でイエスキリストが我々のあらゆる悩みも問題も、病気も貧困も一切の悲しみも苦しみも背負って下さった事を信じて、イエスキリストを信頼しお委ね出来れば、あなたのすべての問題は解決します。
これが正当な聖書の教えであって、一部の世的キリスト教会とは正反対です。彼らはキリストが十字架で苦しんだのだからあなたも一緒に苦しむべきだ。と、たとえ言葉でそう表現せずとも、明らかに態度でそれを示しています。その様に間違って教えこまされている人々に神の愛は到底理解できません。霊性が育っていないからです。
私達はなぜ日に日に神の愛を知り成長していくのでしょうか。それは毎日の生活で主イエスキリストによりすがった時に祈りが答えられ、問題が解決し、病が癒されていくことを体験するからです。ではなぜ解決するのか。それはとりもなおさず、2千年前あのカルバリーの丘の十字架で釘付けにされた主イエスキリストが私たちのすべての重荷も苦しみも貧困も病も背負って下さったからであります。そしてそのことを信じる者は祈ります。異言で祈り感謝を日々捧げます。
愛とは私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、十字架という犠牲を払って下さった事です。命を捨てて下さったという事実です。それがために私達は永遠の命なる聖霊を受ける事が出来たのです。主イエスキリストが私にしてくださった事実を受け入れるなら、私達は神の愛を知り、何の恐れも持たずして、ただ神の愛の内を平安に満ちた幸いな道を歩んで行く事が出来るのです。