(アーカイブ説教集 1996年7月6日礼拝メッセージより)
梅雨終盤
日本は梅雨の時期を迎えております。毎日毎日雨ばかり。うっとうしい日が続きます。特に鹿児島は日本でも雨量の多い地方です。恐らく関東地方と比べると倍の雨量があるはずです。それに加えてすさまじい雷です。梅雨時期の雷は、それはそれは激しいものがあります。雷が落ちる事もめずらしくありません。稲妻といい雷鳴といい恐ろしい程です。この前も近くにある温泉の一つ、重富温泉付近に雷が落ちて家が全焼致しました。温泉も大騒ぎでとにかく裸でみんな逃げ出したとの事。
日本では地震雷火事親父とよく言いますが、古来から地震の次に恐れられているのが雷です。その他に山の神と言うのがありますがこれは奥さんの事です。これも恐ろしいと思う時があります。
責めらるべきは
この日曜日には結婚式が予定されています。日本人はキリスト教徒でなくても結婚式はほとんでキリスト教式です。これも奇妙な話なのですが、日本にいると特に奇妙に感じられないので、これも恐い気がします。
当教会では信者以外の結婚式は原則行いません。しかし一般に日本のキリスト教会ではそうでもないようです。キリスト教の信者であろうとなかろうと結婚式を行う教会もあります。
日本人もおかしいのですが、日本にあるキリスト教会も何か変です。私から言わせればキリスト教会で式を挙げる仏教徒の日本人よりも、責めらるべきは仏教徒の日本人の結婚式を挙げるキリスト教会であります。
一貫性のある形
以前こんな事がありました。鹿児島で一番上等なホテルと言えば誰に聞いても「城山ホテル」です。その名のとおり山の上に堂々たる堅固なホテルです。結婚式にも良く使われます。先日ついにホテルが結婚式専用のチャペルを建てました。
チャペルと言っても礼拝を行う事はありません。ただ結婚式を行う為の建物です。
建物には相当お金をかけて作ってあります。しかし、それは教会とは言えずただの結婚式場にすぎません。神不在の単に教会の形をした建物です。人間が建てただけでは神がいません。聖書には人の建てた宮に神はお住みにならないとあります。
神の働きがない教会などは教会ではありません。建物が立派であればあるほど、むなしさを感じます。城山のチャペルを見るたびにこんな設計は絶対にしたくないと思います。一流の設計士が建てたものでしょうが、教会についてはほとんど無知蒙昧の域です。デザインに一貫性がありません。聖書は一貫しています。よってキリスト教教理も一貫したものです。神の御旨も一貫しています。教会の目的も使命も一貫したものです。つまり一貫性とは神からのものが持つ特徴の一つです。それがないとこのチャペルの様にパッチワークの様なデザインになってしまいます。しかしパッチワークでさえ一貫性を持てばキルトの様な素晴らしい魅力を放つ芸術です。
私達の人生もかつてはほころびを補いながら生きるパッチワークの様な所から、真の神を知り、聖霊に導かれて一貫性を持つに至りました。ほころびとは即ち原罪です。その結果一つの型が築かれてきました。神からのものには神独自の型があります。これは決して人がまねの出来ないものです。私たちの人生は個々の違いはあってもそこに神性の共通した形をもつのです。
毎日来る人々
さてそのチャペルが完成した時に、ホテル側は結婚式を執り行う超一流の牧師を招こうとして、調査の末に鹿児島イエス之御霊教会の門を叩きました。当時の西垣勝先生に結婚式を専属で行って欲しいと頼み込んで来たのでした。報酬もそれ相当の額でした。おまけにもし不可能な場合は、加治木教会の私にお願いして欲しいという事です。結局丁重にお断りしました。その後聞くところによると、市内の複数のプロテスタント系教会から牧師達が順番で来て式を行っているとの事です。
最近うちの近くに教会が出来ました。どんな教会なのかと少し興味を持ちましたが、聞く所によれば、ドアが開いているのは日曜日だけとの事。そこには誰も住んでおらず、日曜日だけ集会に集まる教会だそうですが、これも私からみれば教会ではなく集会所です。
教会には毎日の様に絶えず色々な人々がやって来たり、コンタクトをとってきます。相談に来る方、お祈りに来る方、神の証しをする方、感謝をささげる方、様々です。
心を合わせる祈りの特権
先週お証しを書きましたが、彼はある事業に失敗した時、教会を思い起こし、約3年ぶりに教会に来て祈りました。失敗してすべてを失うのは嫌なので、誰かこの商売を買ってくれる人が与えられるようにお祈りをしました。私も一緒にお祈りをさせて戴きました。
聖書には二人のものが地上に於いて心を一つにして祈る祈りに神は応えるとあります。
後程この方からお電話で、あの時は教会で二人で祈る事が出来たが、一人で祈ってはいけないのでしょうかとの質問を受けました。
勿論聖書にはどこにも一人で祈っては駄目だと書いてありません。主イエスキリストもよくお一人で祈っておられました。一人で祈る事は十分に大切な事です。
ただ聖書には二人のものが一つの事で祈る祈りに関する約束があると言う事です。そして確かにその時祈った祈りはそれから10日後に最高の形で解決しました。詳しくは先週のファックスに書いた通りです。
私達は真の教会を通してこの様な祈りの特権を持っています。今一度その祈りについての聖書の言を確認しましょう。この約束はマタイ伝18章20節にあります。
「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」
難しく考えず聖書に書かれている事をまず行う。そうして体験を通して真理を会得する様になります。実行する事で後から多くの事が分かってきます。
夫婦でも、親子でも、信仰の友でも最低二人の人が心を一つにして祈る事で応えられるとの約束です。この約束を実行する事で人生観も大きく変わります。大切なのは私たちに与えられた特権を用いる事です。