Cipresso of our church members

恵みの福音

(アーカイブ説教集 2000年8月19日礼拝メッセージより)

ヘブル書 11:1
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」

先週は久々にオークランド教会を訪れました。今年はまだ2回しか行けずに申し訳なく思っています。
今回は初めてのケースでしたが、オークランドから日本へ帰る便を土曜日出発にしました。土曜日は安息日です。この日は礼拝日ですから移動は今までしませんでした。

しかし私たちが文字に縛られて信仰をするなら本物の信仰とは言えません。文字とは戒律です。

Ⅱコリ3:6 [新共同訳] 「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」

文字が悪いと言っているのではありませんが、聖書に書かれている言葉を戒律と受け止めてしまうところにクリスチャンの盲点がある様な気がします。学校の規則を守っていれば優等生のレッテルを貼られる様なものです。しかし聖書の教えは違います。

イエス・キリストは聖書を戒律化してしまった当時の指導者達に警告を発しています。そしてキリスト自らも数々の戒律を打ち破って行動しました。当時の律法学者達がイエスを殺そうと思ったのもそれが一因でした。彼らにとってイエスは決して優等生ではなかったのでした。

信仰熱心と信仰心が厚いのとは違います。熱心は外見であって、後者は心です。そこには必ず愛が伴っています。規則を守ることに特に愛は必要ありません。しかし守る事を通じて愛の感覚が次第に身に着くという事はあります。中身を築く為に外の形から入っていくというのは学びの一方法ではあります。

話は戻りますが、以前は神を礼拝する日である安息日に移動する事はしませんでした。国内に於いては午前中の便で移動して午後の礼拝に間に合わせる事はしばしばありました。
ところが今年は色々と重なって、オークランド教会に行く日程が組めません。通常であれば日曜日に日本を出発、帰国は月曜日にオークランドを発ちます。しかし今回はどうしても帰る飛行機が取れないのです。

オークランド空港から成田空港まで飛ぶのは週に3便。そのうち1つは土曜日出発です。今までは先の理由からこの便を避けていましたが、今回はどうしても避けては日程が組めません。では行かなければいいかと言うと、そうもいきません。今年は3月以降まだ行っていませんから、やはり行かなければなりません。
そこで土曜日にオークランド発に乗ろうときめたところです。土曜日は安息日だから移動したくないとは思いましたが、それを破る事になりました。しかし破ってみて気がついたのは私の頭の中で安息日がほとんど規則化しかかっていたという事です。実はこれが文字信仰の恐さです。

もし神の言を文字に書かれた規則と受け止めてしまうと、それを守らない者には罰が当たるかの様な気になってしまい、半ば脅しの世界に成り兼ねません。それは本物の信仰とは言えません。いつでも愛から離れて一人歩きした信仰は偽りです。

世の人々は触らぬ神にたたりなしと言いますが、世の神々はそうでしょう。しかし真の神が愛と信仰によって行動する私達を、規則を破ったからといって罰を与えたり裁いたりはしません。まして人々を脅かすわけがありません。
神は人を救う事に熱心であって、罰を与えるのに熱心ではないのです。私達はうれしくて楽しくて感謝したいから神を礼拝しています。もし規則でしているならそれは真の礼拝ではないはずです。

それで土曜日と言えども飛行機に乗って帰る事にしました。そして金曜日の夜にオークランド教会で安息日礼拝を致しました。こうする事で不可能だった日程が組め、わずか4日間と短い滞在でしたが、オークランド教会へ行って来ることが出来ました。

どんなに私は聖書の言葉を守っていると言っても、もしそれが単に規則として守っているならば、神は喜ばれないでしょう。なぜならそれは信仰ではないからです。

「信仰なくしては神に悦ばるること能はず」ヘブル11:6。

更にガラテヤ書5:6には、
「ただ愛に由りてはたらく信仰のみ益あり」とあります。

聖書の言葉は私たちを活かす為に与えられた神の恵みと受け取るべきです。

決して私達を裁く為に与えられた規則と受け取ってはなりません。事実それは神の恵みの言葉なのです。
この恵みを難しい言葉で「恩寵」(おんちょう)と呼んでいます。恩寵として受け止めた聖書の言の上に建つのが本当の信仰です。

恩寵とは神が私達を愛するゆえに与えて下さる慈しみや憐れみです。
親が子に願うのと同じく私達が元気で健やかである様にとは神の願いです。

神の子たちが健全な成長を遂げ、人生に於いてのすべての必要が満たされ、人を救いに導く祝福の果を結ぶ為に備えて下さった数々の約束が恩寵です。

私達はそれが欲しければただ受け取れば良いのです。神はそれらを私達に受け取って恵まれて欲しいと願っておられるのです。

そしてそれを受け取る方法が聖書に書かれてある神の言を行う事になります。決して難しい事は何もありません。神は私達に出来ない事をしろとは仰らないお方です。

まず自分に出来るところから感謝して行えばいいのです。出来ない事情があってもお祈りをすればいいのです。そうしたら神からの知恵や導きや助けが与えられて来ます。そうして私達は神の恵みを一つ一つ受けとっていく様になっています。

そう考えればクリスチャンにとって最も重要なのは神の恵みを受け取っていく事です。

ところがその神の言を恵みと受け止めず規則と受け止めた瞬間に恵みは去って行きます。
規則ならそれを守らないと罪悪感を覚え、言うことを聞かない者たちを罰する神は恐ろしいお方であり、教会はそれにもまして人を裁く場所となり、ついには神や教会や信仰について多くの間違いが生じてしまいます。

残念ながら今日多くの教会やクリスチャンがそうなってしまっています。不思議な事にそんな教会に多くの人びとが集っていたりします。
世の中には思っている以上に規則に縛られたい優等生が多いという証です。
しかし彼らは単に規範意識が強いだけで規則の中に守られていれば安心だという錯覚の中で生きているに過ぎません。
ゆえにそうでない人々を常に批判しています。

批判攻撃する事で自分が安心出来るからです。主イエスキリストが最も嫌ったのがこういう人々です。そしてそんな宗教的規則を守る事を信仰と呼んではいけないのです。

今日キリスト教会に於いて必要な事は決して大教会の建設ではなく、真の教会の建設です。
戒律ではなく恩寵による信仰の復興です。
「文字は殺しますが、霊は生かします」とはそういう意味です。
信仰とは文字の事ではなくて霊の事なのです。簡単に言えば心の世界の事です。そして規則としての文字は人を裁き罰し殺すものだという事を知っておくべきです。

愛が心の中を扱うと同様に信仰も心の事です。
それは人を生かす神の恵みそのものです。それゆえ信仰と希望と愛は一つに繋がっています。
しかしその中で最も大きなものは愛です。なぜなら愛がなければ信仰は成り立たないからです。また信仰がなければ希望は現実になる前に蒸発してしまいます。
愛はすべての根底に在る基礎です。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」コリント前13:13

かつてユダヤ人のオリンピック選手が陸上競技を辞退した事が話題になりました。理由はその日が土曜日、即ち彼の宗教であるユダヤ教の安息日にあたっていたからです。
しかし、彼の内心は複雑で悩んだあげくについに辞退する方を選びました。

果たして彼は本当に神を選んだのでしょうか。
それは彼にしか分からないと思いますが、神を選んだ様で実は規則を、宗教的戒律に従う事を選んだとは言えないでしょうか。

たぶん彼は試合に出たかったのです。私はそう思います。ただ自分に素直になれれば良かったのです。
そして試合に出場し、その前後に時間を設けて神への礼拝を真心から行えばそれでよかったのです。
しかし彼は宗教の規則に縛られていました。信仰熱心ではあったかもしれませんが、信仰が厚いとは言えませんでした。神の言を間違って受け止めていたからです。
勿論そのように間違って教える教会指導者の責任もあったでしょう。

この悲劇は神の言を文字を、規則として受け取って、恵みとして受け取ってはいなかった結果です。
自分の目で聖書を見なかった結果です。
安息日の為に自分は競技を捨てなければならないと文字を戒律として読み信じたのです。
そして文字は文字どおりオリンピック選手としての彼を殺したのでした。

では聖書は何と言っているのでしょうか。

「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」マルコ2:27

実に簡単な説明です。
聖書の言葉は神の恵みとして受け止めるべきであって、規則としてではない。という事を上の聖句は述べています。しかもこれは主イエスキリストの言葉です。

しかしユダヤ人はイエス・キリストも新約聖書も信じていませんから、先のオリンピック選手の様に戒律信仰でもいいですが、もし今我々クリスチャンがそうなっているとすれば問題ではないでしょうか。

さて、私の話に戻ります。もし私が戒律信仰で安息日に飛行機に乗らないとすれば、結局私は神の心も教会の心も考えておらず、自分の事しか考えていなかった事になります。

もし土曜日にこだわって飛行機に乗れないからもうオークランド教会に行くのは止めた、となれば、結局私は自分の事しか考えていなかったのです。しかし口では「神の恵みを失ったら大変だから大変だから…」というわけです。本末転倒とはこの事ですが、これが見えていないのを信仰熱心と言います。
しかし、神の御心は教会の信者の方々が皆活かされ恵まれる道です。

Ⅱコリ 3:6 新共同
「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」

文字は殺すとあります。規則化された言葉として聖書を守っている人は、守っていない人々を批判的な目で見てしまいます。つまり信仰熱心な人々が他の人々を裁くのです。
裁かれた人々の心は傷つきますから、聖書の言う通りこれは「文字」であって「恵み」ではありません。

恵みを受けるとは神の霊、即ち神の言、つまり神の愛に従って行動している状態ですから、すべての者が生かされてきます。結局私にとっては前代未聞の金曜夜の安息日礼拝でしたが、大変恵まれ感謝いっぱいでした。

ここで再度強調しておきたい事は、神に通じる道はただ一つ。そしてその道を信仰と言ってもいいです。
真の信仰は聖書に書かれた約束をどれもこれもすべて「ありがたや、ありがたや、ありがたや」と受け止めるものです。
これはヘブライ語に訳せば「アーメン、アーメン、アーメン」です。

聖書の約束を恩寵と受け取る私達にはすべてがアーメンと言えるものばかりです。

神が私達に備えてくださっている道は大変に潔く(いさぎよく)、美しく、神秘的かつ魅力的で素晴らしいものばかりです。
すべての人々が心からの休息を安らぎを得ることの出来る道です。
これが真の信仰の道です。それ以外の道はありません。
あるのは恩寵の道、約束の道のみです。

そして神の言は永遠に変わる事も滅びる事もありません。

「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」
コリント後1:20
2016.8.13 追記:
今日はオーストラリアのメルボルンにあるホテルの一室にて安息日を迎えています。大変清々しい朝です。
アーメン、ハレルヤ、感謝。ただただ、ありがたや、ありがたや、ありがたや。

By Shinichi Uema
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