Cipresso of our church members

愛。人格の成熟

愛による成長

「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」 (ペテロの手紙二 1章)

愛の広がり
近 頃は「愛」というテーマで話をしています。はたんきょうでもこのテーマを取り上げています。教会の兄弟姉妹方ともこの事についてよく話をする様になりまし た。もともとは兄弟姉妹の方から愛するとは何ですかとの質問があり、それをきっかけにテーマとして取り上げたのが始まりでした。

正直なとこ ろ私も愛するとはどのような事なのか言葉で人に説明出来ませんでした。しかし少し学べば簡単に説明がつくだろうと考えていました。はたんきょうで2回も出 せば十分だろうなどと当初は思っていたのですが、実際学び始めて見るとこれはとてつもない広大な広がりを見せ始めました。

真理、法則
その広大さは聖書を学んでいる私達の領域を遙かに超えて万人にまで及んでいるものです。実に聖書とは聖書を全く知らない人々にまでも多大な影響を与えている書物です。

言 葉を変えれば聖書は真理を述べていると言えます。真理とは聖書を信じている人々のみに当て嵌まるものではありません。真理は万人にあてはまるものであり、 宇宙全体にあてはまるものです。聖書を信じていようがいまいが、キリストを信じていようがいまいが、それとは関係なくすべての人々の上に働いている法則で す。

誤解される愛
愛の法則も同様です。聖書に書かれている愛についてのすべては真理であり、それは聖書を知っている人、いない人にかかわらず、信じている人、いない人にかかわらず、万人に共通して働いている法則なのです。
反 対の言い方をすれば、宇宙にあるすべてのものはこの愛の法則に支配されています。どんなに人がその法則を嫌っても、それ以外の方法で愛を追求してもその真 理を変える事は出来ません。むしろ真理に逆らい続けるならその人は自らの崩壊を早め、同時に周囲の崩壊をもたらし、宇宙の秩序に逆らう結果になってしまい ます。

学ぶにつれ、愛の真理に従って生きる事の素晴らしさを感じると同時に、愛に逆らって生きる事の危険さやこわさを感じます。そして気付 いた事は、私を含めた多くの人々が愛の真理を知らないか、間違って捉えているか、自己流で知っていると思い込んでいるかという事実です。つまり誤解された 愛がこの地上世界には蔓延(まんえん)し跋扈(ばっこ)しているという事実です。

徐々に退去する悩みと問題
間 違った真理の中を、偽りの愛の中を生きている人々は当然多くの問題を抱え込むことになります。その結果幸福に成ることが出来ません。そしてなぜ自分は幸せ になれないのかと不満をもらし、周囲の誰かのせいにしたり、いや自分は幸せだと言い聞かせて、偽りの人生を歩む事になってしまいます。

しかし、その時に教会に来て真の神の言葉に出会い、真理に出会った時に、段々とその人の問題は去って行きます。これは教会の多くの兄弟姉妹方が経験している事です。そして更に経験する事はその問題すべてが一挙に去って行くのではなく、徐々に去り続けるという事です。

未熟さゆえの悩みと問題
問題が去り続ける。これはどういう事でしょうか。
言い方を変えるとこれは成長し続けるという意味です。クリスチャンにとって生きるという事は成長し続ける事を意味します。だから私達には聖書も教会も必要なのです。

聖霊と洗礼を受けた時に私達は救われました。しかし、成長は全くしていません。救われたというのは誕生したと同じですから。誕生したというのと成長したと言うのが違う様に、救われたというのと成長したというのは違っています。

成長するは神の御旨

真理は進化せず
故に救われたというのと全ての問題が解決したと言うのとは違います。救われた人のその後の成長と連動してしか消え去らない問題もあるのです。そしてこれらの大宇宙に存在する真理は絶対に変わる事はありません。真理は不変です。変化する事も進化することもありません。

なぜ自分だけこんなにも不幸なのか。幸せになれないのか。と絶えず叫んでいる人々はそれ自体その人が未熟であることを証明しています。その解決は実に単純明快です。

真理の中を歩む事をはじめるべきなのです。偽りの愛を抜け出し、真実の愛に飛び込み、その第一歩を踏み始めるべきです。そうすればその人の成長は始まり、更に成長し続け、連動して問題は去り始め、去り続けます。

未熟なままで
こ の様な理由から、聖霊を受けて洗礼を受けて救われたらあとは何もする事はないという考えや教えは大きな間違いです。それだけですべてが解決するという御利 益的思想はどこかが間違っています。しかしこれを求める人々は多いと思います。その理由も分かります。要するに楽なのです。

人は成長する 時、苦痛を伴います。不安になったり、うろたえたり、心細くなったりもするでしょう。成長は決して楽ではありません。しかしそれまで自分を包んでいた御利 益信仰という偽りの暖かさを与える袈裟衣から脱出しない限り、真のクリスチャンとしての成長はありません。ないと言うことは、クリスチャンにとって生きる 道がないと言う事です。

日本人の多くは初めからクリスチャンではありません。シャーマニズム的なお伺い信仰の教えに浸かっている人々が多いです。この様な所から救われて教会を通して多くの問題が解決した後も、依然としてその袈裟衣を脱ぎ捨てようとしない場合があります。
し かし、過去の偽りの幸わせに別れを告げ、御利益という甘い言葉で人々を惑わし続ける偶像宗教の教えを捨てない限り、クリスチャンとしての成長はないし、多 分人間としても自由に生きる道は閉ざされるでしょう。つまりは未熟のままこの世に生を受け、未熟のまま死んでいくのです。

幸福を離れる
整理してみましょう。
人は幸せな人生を獲得するためには成長しなくてはなりません。
しかし、成長には苦しみが伴います。
苦しみは幸福とはかけ離れています。
つまり成長とは幸福から離れる事です。

なんでこんな結論になるのでしょう。それはまだ未熟な人について、述べているからこうなるのです。
未熟な人はそれまで誰かに支えられて幸福に生きてきました。
それに依存して生きる事を当然と思っていました。
だから感謝する事はありません。その人にとって当たり前なのですから。
しかし成長とはそれまで自分がたよって生きていたものを捨てる事です。
つまりそれまでの幸福から離れる事です。

神に寄り縋る信仰
そして新しい道を切り開く事です。
勇気も決断も能力も必要でしょう。
それにも増して神に頼る信仰と祈りが求められます。

昔 ある信者さんが次の様な事を言われました。「私はこれから神に従って聖書のこの約束を実行して行きたいと思います。しかし正直なところ清水の舞台から飛び 降りる心境です」それからこの方が大きく成長し、今日までどれだけ多くの神の恵みを受けているかは計り知れないほどです。

昔は良かったの繰り返し
一見矛盾する様な表現で表される成長と幸福の関係ですが、よく考えて見れば素直に納得出来ることでしょう。しかし一般に人はそこまで考えないので、
短絡的になぜ私を神様は幸せにしてくれないのかと考え、
「昔は良かった」と空しいフレーズを繰り返すのです。

成長と幸福の方程式
もう一度この成長と幸福の方程式とも呼べるものを確認してみましょう。
幸福を得る為には成長が必要。
成長=依存する幸福を捨てる
これ以外に成長の道は無し。

もし捨てられないなら、それは自分にとって必要なものです。そこに問題はありません。ただそれに依存している点に問題があります。

おうかがい、依存的信仰
私達が真の神に出会うまでは他宗教などによる律法的教えが必要だったかも知れません。それは幼児期の私たちを守り育ててくれた養育者でした。聖書にもそう書かれています。

「そ れでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。…信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示される ようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。…しかし、信仰が現れたので、もはや、 わたしたちはこのような養育係の下にはいません」 ガラテヤ書3章21-25

いつまでもこの養育係の元にいるならその子は果たして成長しているのでしょうか。
しかし多くの人々が救われて後、真の神の方向へ第1歩が踏み出せないのは、その養育係から離れたくないからです。つまり母なるシャーマニズムに固執し、偶像教の説くお伺い信仰を捨てたくないのです。

愛は成長を生みだす
ならば捨てるよりは捨てられるほうが楽なのでしょうか。
まだ若い時、ある友人が「恋人を捨てるよりは捨てられた方が楽だ」と言ったのを思い出します。かっこいい言葉だとその時は感心したのですが、今となったらバカの一つ覚えです。全く感心は出来ません。それは愛ではないと今は分かるからです。

それは愛ではありません。理由は簡単です。捨てる事が本当に愛する事だからです。それは辛い事、苦しい事、悲しい寂しい事かもしれませんが、別れるべき時はどんなに辛くても別れを告げる。それが自分にとっても相手にとっても成長に繋がっていくはずです。

もし別れるべきであると判断したにもかかわらず、自分が捨てられるまで待つというのは一見格好いいようですが、はっきり言ってずるい考えです。確かに楽かも知れませんが、とても好きにはなれない考え方です。

ナルシズムの危険性

自己陶酔型のジレンマ
もう一つこの考え方が好きになれないのは、そう言い続けながら、どこかでその人は自分に酔っているからです。この自己陶酔型が一種の危険性を含んでいると私は感じます。これが愛であるはずはありません。

もし前者の様に正直に別れを告げて相手を捨てきれば、むしろその人と一生の友人になれる可能性すらあります。成長した大人の友人としてです。決して自己陶酔型の人にそれはありません。なぜなら彼の中には一貫性がないからです。

極 端に言ってしまえば、自己陶酔型の人にとって付き合う相手は誰でもよいのです。別に相手の事は関係ないからです。頭にあるには真っ先に自分です。相手に尽 くしている自分の姿に、親切にしている自分の姿に、プロポーズしている自分の姿に惚れているだけです。阿呆みたいです。

決して信仰的ナルシストにならない様に注意しましょう。これは本当に危険です。
神 様仏様と言いながら、感謝感謝と言いながら、マリア像にしがみつきながら涙を流して訴え祈っている自分自身の姿に酔いしれているのです。早く目を覚ますべ きです。酔いから醒めるべきです。酔っている本人には他者よりも信仰的な自分が映っていますが、端からはみっともなく映っています。

神を愛するとは、神を愛している格好をしている自分に酔いしれる事ではありません。
しかし偶像教はそれを演出するでしょう。中身よりも見栄えや体裁を取り繕うでしょう。
特別に見える人間像を作り出しそれを心に刻ませてそれが自分だと錯覚させ、ついには神と化した自分を拝ませるでしょう。
それは究極のナルシズムと甘えと現実逃避の自己弁護に過ぎません。

愛は自由をもたらす

真の自由と平和を得るために
成長するとはそんな楽な事ではなく、もっと苦痛の伴う事なのです。過去に依存していた養育者を捨てる事なのです。
もっと言えば養育者なしの恐怖心を捨てることです。
たとえ相手が断わろうが、相手への依存を断ち切る事です。
「お前はわしを捨てるのか」「あなたは私を捨てるのですか」何でも結構、何でも来いです。
場合によってはその様におどされると、こちらが逡巡し傷つくかも知れません。

もし相手の言い分がどんなに正しくても、動じる事無く傷つく事もないなら、その人は愛に於いて成長したのです。
愛されたい愛されたいとそればかり思っている人は決して愛される事がありません。
神と人との関係にも同じ事が言えるはずです。
いつまでも信仰に於いてよちよち歩きのままでは神様が喜ぶはずはありません。
愛する事には成長の苦痛とそれに勝る努力が伴うでしょう。
しかしその先には真の自由と平和が待っています。

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』 」 マタイ22:37

2003年3月15日安息日礼拝メッセージ

By Shinichi Uema
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