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最高の解決への糸口

(アーカイブ説教集 1997年6月28日礼拝メッセージより)

祈りなさい
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
マタイ福音書5章から7章にかけてはいわゆる山上の垂訓として有名です。
口語体聖書では「山の上の説教」と題されています。キリスト教を知らない人でもここの教えを知っている程です。特に5章44節などは有名です。

ここでイエスはユダヤ人に向かって語っておられます。
ユダヤ人の宗教は今でもユダヤ教です。キリスト当時のユダヤ人もそうで、キリスト教会はまだなく、新約聖書もまだありませんでしたから、旧約聖書の教えが中心でした。

旧約聖書には、敵を憎めとあっても、敵を愛せとはありません。「目には目を、歯には歯を」というのが旧約聖書です。
ダビデも詩篇の中で敵を憎んで下さいと祈っております。

また2千年前には、民衆が聖書を手に入れて読む事は困難でした。聖書は今の様にコンパクトではなくて、羊皮紙などに書かれて相当大きな巻き物になっていたはずです。
それから考えれば今私達が聖書をいつでも読めるだけでなく、日常生活の糧として手元に置けるのは大変なお恵みです。

また聖書は聖霊を受けないと分かりません。私達は聖霊を頂いており、かつ礼拝や集会を通じて聖書に触れる事が出来、大変感謝です。
当時のユダヤ人は聖書が手元になく、礼拝時に会堂いわゆるシナゴグで聖書を聞きました。シナゴグでは聖書が朗読されました。ですから当時は聖書は読むものと言うよりも聞くものであったのでしょう。ここの43節でも「・・汝らきけり」と書いてあって、「・・汝ら読めり」とは書いてありません。

ただ注目すべきは44節に「祈りなさい」と出てくる事です。
聖書全体を通して言えば、これはイエスがおっしゃった祈りに関する最初の記録です。そしてそれは敵の為の祈りです。

新たな霊性
正直に言えばそれに気付いて少し驚きを感じます。ただしキリストはそれをユダヤ人に対して言っています。でもユダヤ人の使っていた旧約聖書には敵を許せとか愛や恵みについて何も教えていません。出エジプト記21章にあるような「目には目を歯には歯を」が基本です。「・・とあるを汝ら聞けり」がユダヤ人の教えられて来た事でした。

しかしここでイエスは全く逆のこと、すなわち神の愛について言われました。イエスが最初に教えた神の愛とはここにある事です。「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」

もし水と霊によって生まれ変わっていなかったら、これを行うのは難しいかも知れません。しかし私達は生まれ変わっております。聖霊を受けて自分自身の霊も全く新しく生まれ変わった時、その霊の性質も変わりました。

自分の敵を愛する事が出来る為には神の愛が必要です。という事は聖霊を受けた時に人は自分の敵を愛する事が出来る様になるはずです。なぜなら聖霊は神の霊ですから、その性質も神の愛なのです。

でも聖霊を受けて生まれ変わっている自分に、果たしてその様な事が出来るのかと誰もが思うでしょう。そんなことは考えた事もないと言うのが本当かも知れません。救われてそう出来様になったのであれば、なぜ自分はそう行っていないのだろうと疑問も感じているでしょう。

敵を愛する道
しかし、もう一度よく読んでみましょう。マタイ5章48節。
「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」
この完全、全きという単語の意味は
「充分な発展、成長、敬虔なる成熟をともなった大人となる。であって、罪なき完全という意味ではない」
とスコフィールド博士の聖書に原語の解説があります。
神は完全ですが、人間はだれ一人神の様に完全にはなれません。しかしイエスのおっしゃっていることは神の愛の内に助けられて成長した大人となれと言う事です。

では神の愛、すなわち全き愛に到達するためには私達は誰を愛するべきなのか。私達を愛して下さる人々を愛せばよいのか、と言えばそうではありません。
イエスがおっしゃったのは私達が神の愛によって成長して行くためには「敵をも愛するべきだ」というのです。それはユダヤ人がそれまで聞いた事もない話でした。

敵とは44節に書かれてあるような人ですから、福音の故に我々を迫害したり、嫌ったり、呪ったり、こき使ったりする人達です。このような人々に対して聖書は何と教えているかと言えば彼らを愛し祝し、良くしてあげ、そして祈ってあげなさいと言うのです。
そうすることで神の愛によって私達が成長するのです。成長すれば我々の行動が変わるでしょう。

ロマ書5章8節から10節までを見れば神がその敵を愛した事が書かれてあります。つまり我々がまだ罪人であったときいわゆる十字架に敵対する側にあったときに神は我等を愛したとあります。
どのように敵を愛するのか。
その一つは私達がもし呪われた時にその人々を祝福する事です。神が模範を見せて下さっております。我々がまだ救われていないときにすでに神は我々の為に救いの道を用意して下さりました。勿論受け入れるのは私達ですが、すでに十字架という準備がなされていなければ救いはなりませんでした。

それからエペソ書1章3節をみると、水と霊を受けたすべての信者に神が用意して下さったは「霊の諸々の祝福」があります。救われた人がそれを受入ようと受け入れまいと、それに関わらず神はすべての信者にそれを用意して下さいました。

46節を読むとイエスは、自分を愛してくれる人を愛するのは当たり前だと言っています。教会で気のあった信仰の友と一緒にいるときは楽しい一時でしょう。また世の中の人であっても気のあう人とは一緒にいて安堵感や喜びがあります。
イエスキリストを中心に証しを語り合うと、力が与えられ望みが広がり益々喜びと感謝に満たされます。自由になります。
ただ、世の中の友は親しくなればなるほど義理人情の深みへ嵌り込む場合があり、そうなるとそこには拘束も生じるかも知れません。

従う事は先決
いずれの場合も自分を愛してくれる人を愛した所でそれはあたりまえの事です。そうしたからとて何か特に神の役に立っているわけではありません。
私は牧師ですから先生、先生と呼んで下さって、良くして下さる人々の為に祝福を祈ったからといっても考えればあたりまえの事です。
聖書の言葉を借りればそれぐらいは取税人でもします。二千年前から税務署の人は嫌われていたようです。

そのように信仰の友を愛するのは簡単です。雅歌には「愛らしい」とあります。しかしその人々を愛するだけlなら、世の人々と何ら変わりません。敵は憎らしいのであって、愛らしくはありません。憎らしく、不愛想で、自分によくはしてくれません。

しかしその人々を愛する事で神の祝福が私に与えられるとなれば少し考えを変えなくてはなりません。46節を読む限りその祝福の報いがあるのは明白です。天国に行ってからだけではなく、現世に於いても十二分にその祝福を味わう事が出来ます。

それとやはり従う事が先決です。聖書の言葉に従う。いつも言う様に聖書は神の言葉です。神に従うとはつまり神の言葉に従うの意味です。そうでないと我々の祈りは実現しません。

救われていない人にあなたの敵を愛せよと薦める必要は全くありません。なぜなら出来ないからです。どんなに人格者でも無理です。ただ私達の内に宿る神の御霊の愛がそれを可能とします。

果たしてイエスキリストはそうされたのでしょうか。45節にはそうしたと書いてあります。そしてあなた達も行いなさいと言っています。
誰かが自分を憎んでいると知れば、祈る事です。早くその人が滅亡するようにではなくて、その人の為に何か出来る事を見つけるのがいいでしょう。導かれれば贈り物をするのもいいでしょう。勿論祈ってあげるのもよいでしょう。友人が多い人は多かれ少なかれこれらを実行している人です。もっと早くから知っていれば、私も対人関係に於いて無駄な苦労をしなくて済んだかも知れないと思います。

最高の解決へ
この聖句は更に言おうとしている事があります。つまり神の愛による成長に関して、愛と同時に祈りに関しても大人となることです。祈りに於いても成長して大人となった人は、自分の敵の為にも祈ることでしょう。決して批判や中傷はしないでしょう。

イエスはあの苦しい惨たらしい十字架で、自分を十字架にかけた者達の為に祈っています。
『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』(ルカ伝23章34節)

このイエスキリストの愛と同じ愛が今我々の内に宿っている事実を確認すべきです。

弟子の一人ステパノは使徒行伝7章59節60節において自分を石で殺している人々の為に祈っております。
『主よ、この罪を彼らのに負はせ給ふな』

一般論からすれば、攻撃する敵に対しては復讐すべきでしょう。しかし私達にとっては、振り返るとまず相手の為に祈り始める時に最高の解決への糸口が見つかります。

本物の祈り
神の愛を実践する時、他者の為に祈る時、自分はどうなってもいいと思わなければならないかも知れません。しかしその時本当の意味での祈りが出来るのです。本物の祈りが出来る人に成長したとも言えるでしょう。そしてこうなった人々の祈りは働いて大きな力となります。なぜでしょうか。それは聖言に従う人だからです。

「されど全き律法、すなはち自由の律法を懇ろに見て離れぬ者は、業を行ふ者にして、聞きて忘るる者にあらず、その行為によりて幸福ならん」(ヤコブ書1章25節)

「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」(同 新改訳聖書)

最後にこれらの事と祈りの応えとの驚くべき因果関係を述べたペテロの言葉を見ましょう。

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる」
(ペテロ前3章9~12節)

By Shinichi Uema
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