(アーカイブ説教集 2003年5月17日礼拝メッセージより)
我儘を求める潜在意識
我が儘は人間本来の姿
人間の愛と神の愛との違いは何かとよく質問を受けますが、大きな違いの1つに人間の愛は自己中心である事があげられます。
勿論それが悪いと言っているわけではありません。むしろ適度な自己中心は自分を守って生きて行くためには大切な機能を持っています。言い換えると我が儘である事、我が意のままに行動するのは基本的に必要です。
子供の頃、我が儘は良くないと教えられましたが、人間はもともと我が儘です。ゆえに、我が儘で「在る」ことが良くないというよりは、我が儘を「出す」ことがよくないという教えだったのではないでしょうか。
つまり、人間は我が儘であることを前提にしているわけです。但し、TPOを弁える為に、今ここでは「我が儘を出さないで抑えなさい」と教えていたのでしょう。
こうして子供は徐々にわきまえを身につけていくのですが、それは自分の我が儘をだすべきでない時にはださないコントロール力を身につける訓練をしていたのです。そう考えれば本来人間は我が儘であり、かつ我が儘であるべきなのです。
ところがどこでどう間違えたのか、親の教えを素直に受け取りすぎて、自分は24時間、いつでもどこでも何の目的であっても、一人でいる時ですら我が儘であってはならないと受けとめてしまった人がいるようです。しかし、それは極端に言ってしまうと嘘つきになってしまいます。なぜなら本来の人間の意識は我が儘を求めるからです。それを素直に認めて受け入れた方が人間関係はスムーズに行くと思います。反対にこの事実を認めないと他者に迷惑をかける事が多くなる気がします。
潜在意識の抑制と解放
人間の意識には表に現れているとは別に裏に隠れている部分があるのを発見したのはフロイトですが、実にこれは偉大なる発見でした。潜在意識とか、下意識(かいしき)と言われるこの隠れた意識が在る事実は無視出来ません。
なぜかと言えば、この下意識はとても我が儘で、それゆえにあまり無視され続けると反乱を起こすからです。
一旦そうなった場合、その人は暴走してしまう可能性があります。なぜなら訓育を通じてコントロールの方法を学んでいなかったからです。
自分は元来我が儘だ。と認識してそれを人と人との関わりの中でコントロールする術を学んでいく。決して我が儘を打ち消すのではなくて、逆に受け入れていく。そうする事で人間社会でのコミュニケーションも上手く成り立って行きます。
本来は我が儘である潜在意識自体は悪いものではありません。時々、私は意志が弱い人間で‥と悩む方がいますが、見方を変えれば下意識の意志が強いという事です。自ら弱いという方に本当に弱い人はあまりいません。意志が弱いと思っている人ほど意志が強い場合があります。自分はこうしたい、ああしたいという潜在意識が強いのです。
ところが社会の中で生きている以上、人に迷惑がかかってはならないので、いつでもどこでも自分の我儘が通るわけではありません。でも人に迷惑がかからないのであれば、あまり問題ではないはずです。よってそこでは自分の思うがままに行動し、潜在意識の部分を解放してよいはずです。
魂を捨てる愛
選ぶとは捨てること
人にとって自由は最も素晴らしいものです。誰しも何にも束縛されないで自由を獲得したいはずです。人々は自由を得る闘いも歴史の中で繰り返して来ました。
人が自由を得たいとする願いは当然承認されるべきです。が、それは同時に他人の自由志を妨げるものであってはなりません。人は皆自由意志を与えられており、神を信じて救いを受ける、或いは救いを拒むいずれの自由も持っています。
私達は主イエスキリストを信じ、バプテスマを受けました。また主イエス・キリストは真の神であると知りました。イエスキリストを神として選んだという事は、それ以外の神々を捨てたと言う事です。選ぶとは実は捨てる事です。それまで頼って寄りすがってきた一切の神々とその教えを捨てたという事が主イエスキリストを受け容れた事です。
苦難の時も
「捨てる」という意味は、ゴミ箱に入れるという意味でもありますが、ゴミ箱に入れる事自体は心の中の現れに過ぎません。たとえゴミ箱の中に入れなくても、自分がそれまで頼ってきたもの、寄りすがってきたものへの依存を断ち切ることです。もはやそれらに依存出来なくなったという不安を乗り越える事です。そうして初めて私達の信仰が自立します。聖書には次のようなイエスキリストの言葉があります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」ヨハネ15章16節
キリストの側から見て、主イエスキリストご自身が私達を選んだとあります。はっきりと私達がキリストを選んだのではないとあります。十字架にかかる少し前にイエスが弟子達に語っているこの言葉は、今やキリストの弟子となっている私達にもあてはまります。
そうなると、私達がイエスキリストを信じたとは、それ以外の神々に頼る事を捨てるという行動によってのみ実現する事になります。
このヨハネ伝15章前後はキリストが十字架にかかる直前に語られた言葉なので、ある人はキリストの遺言状とも言っていますが、その中で語られたのは聖霊に関する事が中心で、ここは聖霊行伝とも言われています。
キリストは御自分が十字架に掛かった後、弟子達が戸惑わないようにと、自らが悲哀と苦難の深みへ赴こうとする時も、最善を尽くして弟子達を慰めています。ここに述べられているイエスの言葉と、記録されているイエスの行動は神の愛を具体的に私達に教えてくれています。15章の13節では
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
同じ聖句を永井訳聖書でみると、
「人その友のために、己の魂を捨つること、これより大いなる愛を誰も有ざるなり」
とあり、「命」の部分が永井訳では「魂」となっています。原語に忠実なのは永井訳の方ですから、ここは魂を捨てるという意味がより正確です。魂とは人間の意志や感情や知性で成り立つ部分です。自分がどう思い、どう感じ、どう考えるか。すべて魂の領域です。
しかし果たして十字架の死を前にして弟子達に教えを説いたイエスの魂は何も感じない、何も考えない、何も思わない魂だったのでしょうか。それは私達とは違った魂だったのでしょうか。
いえ決してそうではありませんでした。
イエスの言動は弟子達に対する愛の故でした。神の愛によってイエスは弟子達の為に自分の魂、つまり自分の意思を捨てたのです。「人その友のために、己の魂を捨つること、これより大いなる愛を誰も有ざるなり」とはその事実を示しています。
魂の叫び
では、イエス御自身の思いはどのようだったでしょうか。聖書は次のように記しています。
十字架に掛かる為にイエスが捕らえられる直前、ゲッセマネという場所でイエスが祈った記録です。弟子達と離れてイエスは一人で祈られました。そこにイエスの魂の叫びが現されています。
◆ゲツセマネで祈る マタイ26章
36:それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37:ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
38:そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
39:少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
40:それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
41:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
42:更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
43:再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
44:そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45:それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
46:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
同じ場面をマルコも記録していますので、マルコ伝14章の方も見ます。
◆ゲツセマネで祈る
36:それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」
と言われた。
37:ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみも
だえ始められた。
38:そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを
離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
39:少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、で
きることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、
わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
40:それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠って
いたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか
一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
41:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、
肉体は弱い。」
42:更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まな
いかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われ
ますように。」
43:再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かった
のである。
44:そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈
られた。
45:それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがた
はまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たち
の手に引き渡される。
46:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」
愛の上に建つ帝国
愛は祈りと共に
神の愛と人間の愛を較べるのは愚かな事かも知れません。それは比較出来る様なものではないからです。
しかし、私達が両者を区別出来る為に知るべきは、人間の愛は自己中心的傾向にあります。たとえそう思わなくても、潜在意識に於いてそうです。
自分の潜在意識を見つめ、自分が何を思い、何を考え、何を感じているのか。何を欲しているのか。その訴えを知って、それを満たす事も大切ですが、逆にそれを捨てるのが必要な時もあります。
それは神の愛によって行動する時です。神の愛は自己中心的ではありません。神の愛は自分以外のものを優先します。
人間は基本的に我儘です。そうではないと思っている人ほどもっとそうです。他者の目に映っている姿と、自分の思っている姿の段差が大きいという意味です。
ですから私達は神の御心に従う事でのみ、神の愛による行動が可能です。そしてその為に不可欠なのは、異言の祈りと、聖書の御言葉です。
キリストがゲッセマネで祈られた如く、その祈り無くして神の愛を実践する事は出来ません。もし私達が神の愛によって歩んでいるなら、それは自分を励まし、自分を勇気づけ、自分を充電する異言の祈りの結果なのだろうと思います。
皇帝ナポレオン
かつてかの武将ナポレオンは皇帝の地位を獲得しました。私たちには出来ない体験です。しかし私たちは今日の社会にあって、何らかの財力、権力、地位、名誉等を獲得したいとする執着を潜在的に持っているかも知れません。しかしその価値観は果たして私達を幸せにするでしょうか。いいえ、もしそれが人間の高慢を誘発するならむしろ破滅させるでしょう。
人間の善き思想や理想に耳を傾ける人々は多くいますが、実際そんなものは砂上の楼閣にすぎません。むしろ私の重要視するのは体験を通して出てきた言葉です。人の体験から出た言葉は軽んじたくありません。そこには耳を傾けるべき真理があるからです。
皇帝の地位についた経験を持つナポレオンの次の言葉に耳を傾けてみて下さい。
彼の言葉の故に私は彼を尊敬するのですが、彼は自らの体験によって宇宙の真理を示されました。
皇帝の座に着いた体験が彼にそれを見せたのではなく、失墜し幽閉され死を目前にして謙虚にさせられた時に真理を見たのです。真理は地味で決して目立つことなく、人の最も美しい姿である謙虚な心に見いだされるのをじっと待っているのです。
私は人間を知っている。しかし、イエスは人間ではない。イエスは信じなさいと命ずる。その理由としては、私は神であるという恐るべき言葉以外には何も与えない。
哲学者は、空しい議論によって宇宙の秘儀を解こうとする。愚かな連中だ。月をおもちゃにしたいと泣いている子供のようだ。
キリストは決して躊躇しない。
彼は権威を持って語る。
イエスの宗教は秘儀だ。しかしそれ自体の力で存在する。
イエスは絶対的な要求によって人々の愛を求めるが、それは世に最も得難いものである。
アレクサンドロス、カエサル、ハンニバルは世界を征服したが一人の友もなかった。今日彼らを愛する者はおそらくわたし一人だろう。
アレクサンドロス、カエサル、シャルルマーニュ、そしてわたしは帝国を建てた。だが何の上に?
力の上にである。
イエスはその帝国を愛の上に建てた。
今でもイエスのためなら何百人もの人々が死をいとわないであろう。
私も、私のために命を捨てるほどの存在が必要であった。
今の私はセントヘレナにいるが、私の友はどこにいるのだろう。
私は忘れられ、死んでうじ虫のえじきとなろう。
私の悲惨とキリストの永遠の国との間にあるのは何という深淵であろう。
イエスの名はのべ伝えられ、愛され、崇拝され、その国は全地に広がっている。
これが死というものか。君、
キリストの死は神の死だ。
イエスキリストは神なのだ。
( Napoleon Bonaparte ナポレオン・ボナパルト )