(アーカイブ説教集 2003年6月14日礼拝メッセージより)
久保巡回との出会い
久保巡回からお電話があり、只今アフリカから日本に戻っているので、本日の安息日礼拝に集いたいとの事。大変感謝な事で、久保巡回に説教をお願いする予定にしています。しかし、説教の内容を今回のメッセージに載せるには間に合いませんので、次回に回したいと思います。
想えば久保巡回と私達が初めて出会ったのは飛行機の中でした。1996年11月末の事です。私にとっては多分17回目のニュージーランド伝道だったと思いますが、その時私と同行していた一行は、鳥丸御家族、田中御家族、田代御家族、岩元御夫妻、西垣静子先生、私の家族、他数名で総勢25名程になったと思います。
神様はその時その都度、必要な器を揃えて神ご自身のご計画を推し進められます。今もって海外伝道には私一人で行く事はありません。その都度神様は必要なメンバーを集めてチームを組んで下さいます。これも人間業では出来ません。なぜなら人間はこれから先に起こる事を予測出来ないからです。しかし、神様はご自分のご計画と目的に沿って先に起こる事もあらかじめ見通し、その準備として必要な器を用意しているのです。
とはいえ25名程になるとこれはもう動く小教会と言っても過言ではありません。しかもその数は途中で減ったり合流したり変化していきます。つまり、それぞれが神様に導かれて行動する事があったり、またどこかで一緒になったり、或いは行く先々で現地の信者さん達と合流したり、移動したりします。
その時も伝道旅行の最初の日から、私達は関西空港発クライストチャーチ行きの機内で久保巡回と出会ったのです。
私達一行の席はいくつかの固まりに別れていました。エコノミークラスしかない機内は満席とのアナウンスでした。しかしほとんどの人々が搭乗し終わった頃、西垣静子先生の隣の席は空いていました。西垣先生は私に「この隣の席は空いているのですか」と尋ねられたので、私は「空いているようですね。これだけ満席状態の中で横が空いているとはお恵みですね」などと言っている所へ、一人の女性がどたどたとやって来てその空いている席へ座ったのです。
彼女は最後の最後に乗り込んで来たのですが、これが久保巡回でした。彼女がそのシートに腰を下ろすや否や、私は適当な方向を向いてあとは知らないという顔をしていたのですが、静子先生はなんと彼女が横にいるにも関わらず、また私に声を掛けて「ここは空いているんじゃなかったんですか?」と念を押される様におっしゃいました。
その時何となく気まずい空気が流れ出したのですが、久保巡回は私を旅行者の添乗員と勘違いしたのか、私に向かって控えめな声で「あの~~、私どこかへ移動しましょうか」とおっしゃったのです。
あの満杯状態の機内で彼女はいったいどこへ移動するつもりだったのか、と今になって考えますが、咄嗟に私の口から「いえ、そこはあなたの席ですからそこにいて下さい」と言葉が飛び出していました。
すると静子先生は今度は久保巡回に向かって、何か語りかけられました。それが久保巡回へ最初に福音が語られた瞬間でした。
後で聞いた話によれば、静子先生は今回の伝道に出かける前に、誰かに福音を語って救いに導きたいとの願いがあり、事前にその事を祈っておられたそうです。
しかし、その祈りの答えが飛行機で隣の席に座った人だとは思いもしなかったわけですが、考えて見ればあれだけ数百名も乗っている機内の人々の中からたった一人、しかも私達家族でも席がバラバラになっている状況の中で、久保巡回が西垣先生の隣にしかも最後に乗り込んできたとは、非常にドラマチックな成り行きです。つまり神のお導きなくしてはあり得ない事です。
福音を語る事は誰にでも出来ます。5歳の子供でも可能でしょう。また今日救われた人にでも出来る事です。しかし福音を求めている人に出会うとなると至難の業と言えるでしょう。人との出会いとは人の能力を遥かに超えた次元にあります。そこには人智を超えた神の導きがあります。人間の力ではどうする事も出来ないことの1つが、人との巡り合わせです。そしてそれは人の人生に大きく大きく影響します。それがすべてとまでは言わなくてもほとんどと言える場合があります。
例えば私達が生まれた家です。すでにその時から人と人との巡り合わせは始まっています。だからそこに私達の祈る根本的理由があります。私達は福音を語りたいのではなくて、もっと突き詰めて言えば救いを求める人と出会いたいのです。
静子先生は早速隣に座った隣人が神の定めによる巡り合わせの人だと気づいたのでしょう。飛行機が離陸する前に福音は久保巡回へと流れて行きました。まさにこれは「河の流れの様に♪♪」です。
聖書的に言えば、荒れ野に水が沸き、砂漠に河が流れて来たのです。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」イザヤ43:19-21
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる」
イザヤ35:5-7
神の力
それは乾ける人の魂に潤いを与え生命を運ぶ源です。神の愛、アガペ-の結晶なる福音です。自分を愛する様に自分の隣人を愛しなさいとは新約の律法です。
律法を守る事によって人が義人とせられるなら、私達は今、隣人を愛する事によって義人となるのです。神による義人です。私達はこの真の神によって正しい者とされています。実にアガペ-は福音の中にあります。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」ロマ1:17
その前の16節には、
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」
とあります。
ポウロ先生が書いたこの聖言は力強いです。この聖言に秘められた力は私達の体験とあいまって驚異的な光を放っています。福音とはここに書かれてあるように実に単純明快です。
それは「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのです。
それは理屈でも理論でも学問でもありません。実際的な神の力です。
それは建設的な力であり、人に生命を与え、癒しを与え、健全と健康と安心と安全を構築する力です。
悪魔の一切の支配を破壊する力であす。
諸々の恐れと不安と疑いと不信心を破壊して無に帰する力です。
洗礼式
「信じる者すべて」とは一体何を信じる人々でしょうか。
それはイエスキリストの十字架です。
それを歴史的真実として信じる人々は世界中のほとんどの人々でしょう。
しかし、それを信仰的に信じるなら、その人は主イエスキリストが自分の為に十字架に架かって下さった事を知り、自分が受けるべきすべての呪いをキリストが受けて下さった事を知り、それを感謝して受け容れ、十字架の主を仰ぎ見る時に自分はその呪いから解放されている事を悟って、すべての問題から実際的に救われてくるのです。
機内で途中から静子先生は岩元姉を呼び今度は岩元姉がいろいろと久保巡回にお証を語りました。福音を語っていると飛行機の旅もあっと言う間に時間が過ぎます。クライストチャーチに到着すると迎えに来てくれた現地の信者さんたちと共に私達一行は5メートル程の川幅でゆったりと街中を蛇行する実に美しいエイボン川へと直行しました。そこで久保巡回の洗礼式が成されました。
振り返って見れば、久保巡回は実に恵まれた中で救われています。こんな条件が揃ったお恵みの中で皆が救われるわけではありません。
例えば私が洗礼を受けたのは5歳くらいの時、教会の信者さん方が数名洗礼をお受けになるというので、母親に私も行けと言われて、教会から川まで約40分ほどの道程を後ろからとぼとぼと付いて歩いて行って、信者さん方が皆洗礼を受け終わった後で、ついでに私も洗礼を受けたという感じです。
久保巡回はこの様に多くの天使たちは勿論、聖徒方からも見守られ、しかも美しい最高の景観の中で洗礼を受けたのです。しかしそれらの事は彼女の目には一切入っていなかったかも知れません。なぜならその時彼女は最も落ち込んでいて、いろいろな不安を抱えていたからです。それが故に救いに与ったとするなら、見方を変えれば悩み問題も感謝な事です。
キリストの体なる教会
洗礼を受けた後、彼女は私達一行と行動を共にしました。彼女の方から一緒にいさせて欲しい旨願い出たからでした。そして毎集会に出席しました。文字どおりそれは動く教会でした。いや今でもそうです。
「教会」とは建物だけを指す言葉ではありません。救われた私達一人一人が神様に用いられる器であり、キリストの体の一部なのです。そして教会とは現代に於けるキリストの体です。それは世から救い出された罪人、即ち聖徒達の集合体です。それは神によって選ばれ集められ方々の集合体なのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」ヨハネ15:16
かくして数日間のクライストチャーチ伝道を終え、私達は久保巡回に別れを告げ、オークランド教会へと向かいました。私達が彼女を離れても、主イエスキリストの恵みはそれ以降決して久保巡回を離れる事はありませんでした。それは私達一人一人も同様です。
その後彼女は大阪の家に帰り、そこから灘井姉宅の芦屋伝道所に集われる様になりました。再びそこで久保巡回と会うことになります。
2001年にアフリカ大聖会が開催される事になりました。久保巡回は私達一行に加わって一緒にドバイ経由ケニアへと出発したのですが、そのまま現地でボランティア要員としてメグミスクールの開拓立ち上げ事業に加勢する為に残る事になりました。
そこで教団監督の目に留まった彼女は献身して巡回伝道者への道に入る事になります。神のご計画がここで誰の目にもはっきりと見えるようになりました。
最高の人生を送る秘訣
このように、神に選ばれた以上私達は皆、神のご計画の道を持っています。それは各自違いますが、その道を歩むなら決して迷う事はありません。しかし歴史的にも世界を見回せば、せっかくその人に備えられている神の道を歩まない人の方が多いのが事実です。今その話はしませんが、多分クリスチャンの10人に9人は間違いなくそうです。神がその人に用意している道を歩んでいないのです。言い換えると、自分が神にして欲しい事を求めて生きています。それが悪いと言うわけではありません。ただ愚かな選択です。私もかつてはそうして生きていました。
そして学んだ事があります。そこにはもう一つの別の選択がある事を是非一人でも多くのクリスチャンに知って欲しいのです。それは誰もが最高の人生を送る事の出来る秘訣です。
それは自分が神にして欲しい事を求めて生きるのではなく、
神が自分にして欲しい事を求めて生きることです。
「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない」イザヤ35:8
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」
まさに主イエスキリストのこの言葉が久保巡回の人生の上に起こって来たのですが、考えてみると、私たち一人一人にも皆この聖言はあてはまります。私達は一人として自分からイエスを主と選んだ者はいないはずです。むしろ拒んでいたかも知れません。逃げ回っていたかも知れません。しかし、時が来た時に主イエスキリストに選ばれ全能の神の御前に平伏しています。
救われたこの身を感謝し、大能の神、主イエスキリストに常に感謝と讃美を捧げましょう。この世は救いを求める乾ける魂で溢れています。どうかその方々と私達が福音によって巡り会う様事が出来ますように。この祈りを継続し、人々の救いが今日も為されるよう祈りましょう。
更に自分の上に持つ神の計画を求めて祈りましょう。ハレルヤ