アブラハムの祝福
桜の開花
桜も終わりこれから日増しに日が長くなり暖かくなってきます。
今年は全国的に春が早くから訪れました。桜の開花も通常は鹿児島がスタートとなるはずですが、今年は鹿児島よりも本州の方が早く咲きはじめて鹿児島は後から咲くと言う逆転現象が起こっています。
聖書的に表現すると後の者が先に、先の者が後にでしょうか。
後なる人は先に
たしかに信仰の歩みに於いても後から救われた人が先に救われた人を追い越して行く場合もたたあります。しかし今まではあまり多くはありませんでした。
人間的に考えれば先に信仰の道を歩んで経験も知識もある方々または古くから設立された教会が祝福の道を踏み外すとは考え難いのですが、残念ながらそうでもなさそうです。
神に従う道
振り返ってみると過去五年位の間に信仰の先人たる方々が足踏みをしてしまったり、姿を消してしまったりしています。良いとか悪いとかの問題ではなく、それぞれの人生ですから自らが定めた道を選んで行く問題です。
しかしながら神様を信じて寄りすがって行く道を選択された方は当然神様の働きをその都度体験して行きますから、神の助けを得て喜びと感謝の御証しが与えられて来ます。又教会は救われた方々すべてに神様に従う道を見せてくれるところです。
物質的な繁栄
その様に神様に寄りすがって信仰の道を歩まれる方は皆恵まれて祝され栄えて行きます。心の部分のみならず見える状況も栄えて行きます。様々な御証しもあります。
見える状況と言うのは経済も含まれます。財政的にも潤い満たされます。実際そうです。
聖書の中にはイサク種を撒けば実ること百倍と書かれてあります。イサクはアブラハムの息子で祝福を父親から受け継いだ方です。その彼が畑に種を撒けば他の人と比べて収穫が100倍多かったと書かれています。これはどこからどう解釈しても物質的な繁栄であります。
祝福とはこのように見える範囲も含まれているのです。
注目すべきはこのアブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれて来た祝福と同じ祝福が今我々の上に注がれているのであります。聖書はそれを言っているのです。
となれば、神様に従う道におれば我々は経済的にも豊かになって栄えて行くことが自然です。聖書的です。そして現実に多くの信者方はそうなっています。
知るべき三つのこと
貧困と病と死
しかしこれもまた現実なのですが、それは「多く」であって「すべて」ではありませ。10年以上も信仰の道を歩んでなおかつお金に困っている場合があります。
何故そうなるのでしょうか。
牧師としての立場から私も考えるわけです。100倍の祝福を受けた人々がなぜ世の人々と同じ様に貧困と病と死の恐怖に悩まされ苦しんでいる場合があるのでしょうか。
呪いは悪魔から
必要が与えられなくて苦しんでいたり、病で苦しんでいたり、死の不安で苦しんでいたりと、もしそれらが長年ずっと続いているならそれは良くありません。なぜならそれらのものは呪いだからです。呪いは神様から来るものではありません。悪魔が持ってくるものです。そこに第1に気付くべきです。
祝福を得た人々を神様が呪う事は決してありません。もしそんな事があれば神様は矛盾だらけになってしまうでしょう。しかし我々の神様にその様な矛盾は一切ありません。
聖書にも神が祝福した人を神が呪うとはどこにもありません。貧困と病と死は悪魔の持って来るものです。
我らの神なるキリストイエスは十字架により人類をこの三重苦から開放して下さいました。すべて主イエス様を信じるものは水と霊のバプテスマを受けて救われて行きます。ですからこれらのものがすべて悪魔来であることを第1に認めねばなりません。
神は善にして善を成す
第2に知るべきことは神は善であって、善を行うお方です。過ちや失敗は犯しません。
ですからいつでも過ちを犯すのは人間の側にあります。
人間は不完全ですから絶えず失敗を繰り返します。神様は完全ですから失敗を犯す事が出来ないのです。
ところが人間にはなかなか完全の意味が理解出来ません。完璧と誤解する場合もありますが、完璧ではなくて完全です。
聖書に100倍の祝福を神様は私達に与えたと言うのならそれが本当です。神様は間違えないからです。人間の様に100倍をマイナス100倍と間違えてしまったと言うような事はありません。
でもその様な祝福を得た人が栄えない理由があるのでしょうか。確かに聖書にはその理由が書かれています。
旧約聖書を読むとそこには様々な歴史上の人物が登場します。そして神様に選ばれ祝福を受けた人達が色々な間違いや失敗を犯しています。その中に探し求める答えはあります。
聖書にはこうした人間の失敗が包み隠さず記録されています。一般に古代の書物にはこうした過ちや失敗を書いている物がありません。大概は書いた人によって創られた自慢話や英雄伝です。
この点でも聖書は素晴らしい物です。ただ奇麗ごとが書かれてあるだけではなく、人間の弱さ不完全さ醜さがそのまま書かれています。そしていつでも常に神様の対応は完全であり、善であると聖書から知る事が出来ます。
悪魔も聖書によって
第3番目に知るべきは悪魔さえも神の言葉によってのみ働く事が出来ると言う点です。
悪魔は勝手に働いているようですが、彼らは聖書によって許された範囲でしか働く事が出来ません。
少し分かりやすく言い換えると、このような事をすれば祝福を失いますよと聖書に書かれている事をある信者がしたとするならば悪魔はその範囲で働く事が出来ます。
逆に神様がある信者にこのようにすれば祝福を得て行きますよと御言葉や証しを与えて導いているにもかかわらず、従わないならば悪魔はその範囲に於いてその人を苦しめるために働く事が出来るのです。
つまり聖書にするなと書いてある事を行ったり、しろと書いてある事に従わなかったりしたときに悪魔は働く事が出来ます。
その意味では悪魔も神の御言葉によって働いています。では悪魔の罠に引っかからない為にはどうしたらよいのでしょうか。
神の領域、人の領域
神を敬い畏れよ
一言で言えば神をおそれる事です。おそれ敬う事。畏敬の念を持つ事。神様と自分との間に距離を保つ事であります。距離を保つと言っても神様は今御霊となって自分のうちに宿っているのだから距離も何も元々ないはずと思っているかも知れません。
神の領域
私の言っている距離とは空間的隔たりではありません。そこに空間ではなく、神の領域があるのです。つまり神様と我々の間にはその意味で距離があります。その距離は空間ではありません。もし空間があれば我々と一体ではなくなります。
その空間を埋め尽くしているのは神の領域と呼べるものです。そしてこの神の領域と我々の領域とは一線をもって仕切られています。ここを越えてはなりません。私達がこの線を越えて神の領域に踏み込む事は大変に危険な行為です。
祝福を失っている多くの人々は無意識のうちにこの事を行ってしまっています。もし気付いて戻れば大丈夫ですが、気付かずにいつまでも神の領域に踏み込んだままでいると悪魔が動きだして来ます。
聖書にしてはいけないと言う事をその人がし続けているので悪魔が働く事が出来るのです。
神をおそれている人は神の領域に踏み込む事は致しません。とてもこわくてそんな事は出来ません。これは神聖なる類のおそれです。言葉で表現すると尊敬や畏敬の念に近いものです。天使の存在に気付いた人がおそれを抱くのと同じ事です。それは神の領域の神に属する世界の生き物だからです。つまりこのおそれは地震や雷や蛇やおやじが恐いと言う様なものではありません。
日常生活にある恐れ
勿論日常の生活の中では私達はある程度こわいと言う感覚がないとうまく生きて行けません。道路を歩いていて車にぶつかっても恐くないとか、雷に打たれても恐くないとか。
確かに聖書には恐れるなとありますが、しかし日常の生活で必要な恐れもあります。聖書はそれを指しているわけではありません。
恐れは日常生活である程度必要な感覚です。もしそれが無ければ知らないで我々は危険なところへ入ってしまう事でしょう。似たような事で、神をおそれる事を知らないとこの危険性が生じます。
牧師の過ち
例えば牧師なら他の教会に干渉することなどです。勿論その様な事をする牧師さんは通常はいらっしゃいません。
しかしわかりやすく説明する為に例えを用いると、例えば私が鹿児島教会の信者さんの相談を勝手に受けてお祈りをしてあげたりしたとします。しかし、それは私の教会の信者さんではありません。しかし知っている人だし祝福を祈って良いアドバイスも与えてあげたのだから良いだろうと思うかも知れません。
鹿児島教会の西垣先生にも黙ってしたが良い心でしてあげたのだからむしろ喜んで下さるかも知れない。などなど、色々と都合の良い方に考えるわけです。
しかしもし私が神をおそれる心をもっていたならそうは考えないでしょう。つまり私が神様から任されている教会は加治木教会です。それが私の範囲です。これ以外は私の関与する又干渉できる領域ではありません。それらは神に属する領域です。
ですからどんなに鹿児島教会の信者さんが私のところに来ても、私は鹿児島教会の牧師先生のところに行ってご相談もお祈りもして戴いて下さい。とアドバイスするのが善い事です。私は神様をおそれていきたいので、自分の範囲を越えて神の領域に介入したくはありません。またそれは大変に危険な事も良く分かっています。
勿論鹿児島教会の牧師先生から頼まれれば喜んで御手伝いは致します。
真心から愛の内を歩む
悪魔の意図
悪魔は時々意図的にその様な形で私たちにその範囲を越えさせようとします。これは牧師、信者の区別なくあります。
たとえそれは悪魔の仕業だといってもその範囲を越える人自身にも問題があります。実はそこが一番の問題です。
その人の動機が不純な故に悪魔が入る隙が出来てしまったのです。
その動機とは多くの場合人を支配して操ろうとする事です。それが不純なのは聖書に反するからです。聖書には人が人を支配できるとは書かれてありません。
お金に注意する
救われている方々に、場合によっては信仰の先人達に悪魔がこのような不純な思いを持って来る事があるのも事実です。
最初は皆分かっていて払いのけますが、何度目かで引っ掛かる人がいます。その原因はずばり言ってしまえばお金です。
お金で悪魔に働く隙を与えて神様の祝福を失った人々は大変に多いのです。
私は教会の中で育ち子供の頃からそれを見てきていますので、教会の方々は誰にもそうなって欲しくはありません。
しかしそうした理由で教会から離れて行く人々はいます。ただそれは問題ありませんが、その後のその人の状態は時々気になります。
それを考えると可哀想と思いますが仕方ありません。たとえ教会にいても他の方々に迷惑をかけてしまうからです。他者を支配しようとしてしまうからです。
他者のプライベートに首を突っ込んでああしたら、こうしたら良い。牧師はこう言っていた。などと親切を装いながら指図をしてしまいます。
これは明らかに親切やお世話の範囲を越えて余計なお世話になっています。更にエスカレートすれば神の領域にまで踏み込んでしまうのです。
愛と真心の中で
勿論このような人がいたと言う話ではありません。教会の方々は皆神を畏れ敬う心を持っておられるので、それぞれが置かれた所に留まって親切と真心からお世話や奉仕をして下さっていらっしゃいます。
それゆえに出来ない事は致しません。ですから私も他教会の信者さんのお祈りは出来ないわけです。
しかし一方では他教会だからといって交流しないというのではなく、自分が置かれた範囲で親切と真心をもってお世話もさせて戴くわけです。そしてもし自分の範囲を超えてしまったと気付けばすぐに戻るだけで良いのです。
しかし気付かずに他者への介入を続けているのであれば、それは愛のうちを歩んでおりませんから、その人は繁栄する事が出来ません。神様が働けないのです。
神の愛に反して歩むなら悪魔が働ける事になります。結果として呪いはその人を押さえつける事になってしまいます。
今日は逆説的な話しになりましたが、祝福を得る秘訣もあると同時に祝福の果が結ばない原因もあると言う事です。そのことを知るのも祝福を得る秘訣です。
今日話した事に関する聖書の御言葉を以下に引用します。
コリント後書第10章
12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。
14 わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。
15 わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、
16 あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。
17 「誇る者は主を誇れ。」
18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
これからもますます神を畏れ敬い、互いに自分の範囲を超えず、教会の頭(かしら)なるキリストの愛の内を歩んで参りましょう。ハレルヤ
(1998年5月11日安息日礼拝メッセージ)