(アーカイブ説教集 1998年6月6日礼拝メッセージより)
徴と予測
鹿児島は梅雨に入りました。今年も鹿児島は例年より暖かいので、梅雨も早めに来た感じですがここに来て急にエルニーニョ現象が終息に向かいつつあるとの報道を受けています。そうなると今年の夏はあまり暑くならない可能性も出てきました。
今からそんな事を言ってどうなるのかと言われそうですが、予測があたるにしても当たらないにしても、ある現象を一つの徴として見るとその先の予測が出来る場合もあります。
マタイ福音書
16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
ルカ福音書
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
この2つの聖句を読んでイエス様のおっしゃっていることを考えると何かしら見えてくるものがあります。聖書を読んでいて何かしら見えてくるものが大切です。分からないところは無理して分かろうとしないで、分からないままに読むことが大切です。
私たちは日常の中で明日の天気を推測したり、季節を予測したりします。天気予報も的中率が上がって来たものの限界はあるようで、特にこの時期になりますと予報が外れることが多くなります。それは天気を予測する為の材料として雲の動きがあります。雲は重要な徴です。イエスは其の事を知っていて朝焼けの雲の低い時は嵐が来ると言っています。人々も其の事を当時から知っておりました。地中海の東に位置するイスラエルでは海で仕事をする人々が多くいたのでしょう。海の状況を読むことが出来なければ危険です。命に関わります。ここで言う朝焼けは嵐の徴です。
時代の徴
それでこの徴を見ていくことが、予報です。現代でもこの徴を見ないと天気予報は出来ません。また百パーセントの予測は不可能です。私はつい最近まで天気予報は外れる事が無いと思っていましたが、的中確立は約3割との事。つまり当たるよりも外れる方が多いのです。
いやそんなことはない、天気予報はいつも当たると信じている方もおられるでしょうが、それは長期予報ではなく、極近い時点での予報です。この聖句でも「今日は」と書いてあります。今日の午後からはとか、夜はとか近い予測はかなり当たることが多いです。
予報に関してはこの徴が大変大切な要素となってきます。そしてイエスのおっしゃっていることは日常我々がこのような徴を見ながら無意識のうちにも行動しているのに、なぜ「時代の徴」を見ないのかと言うことです。
ルカ伝には「偽善者」とも出てきます。この言葉は時の宗教家である人々を指して言ったものですが確かに現代の宗教家も今の時代が何であるかを知ろうとせず、中には時代錯誤もはなはだしいものもあります。
例えばエホバの証人がそうです。彼らの大間違いの一つに今我々の生きている時代の間違いがあります。旧約聖書の時代に今私たちが生きていると考えるとあのような間違いが起こります。
型から学ぶべきもの
聖書には大きな時代の変わり目があります。つまり大きく2つの時代に分かれます。1つは旧約聖書の時代。もう一つは新約聖書の時代です。私たちの持つ聖書もこの2つの聖書から成り立っています。しかしながらこれらは2つで1つの聖書です。これを時間の流れから区別すると、イエスキリストの十字架以前は旧約時代となります。そして今から約2000年前のカルバリーの丘でのイエスキリストの十字架以降現代までもずっと新約時代です。
イエスキリストの十字架から時代は大きく変わりました。すべてが変わったと言っても言い過ぎではありません。例えば礼拝の仕方も根本的に変わりました。
旧約聖書を読むと分かるようにそれは律法の時代でした。そこには掟がたくさんあります。その掟を守らないと罪だ罰だとなりました。神を礼拝する安息日も守らなければならない律法の一つでした。
ところがイエスキリストは安息日は人の為にあるのであって、人が安息日の為にあるのではないと、律法による安息日礼拝を否定しました。
それだけではなく、すべての掟は新約時代になって消滅しました。ですから新約聖書には律法が書かれてありません。もし、1つだけ律法が書かれてあるとすればそれは愛の律法だけです。しかしこれすらも律法とは言えません。それはつまり自分の隣人を愛せよと言っているからです。
もし完全な愛があれば律法はもはや必要ではありません。愛は律法の完成だからです。今ここで愛について語ることはしませんが、言いたいことは旧約時代よりも新約時代はより良い時代であるという事です。新約には神を愛し隣人を愛する以外に律法はありません。
ところが今の新約時代に旧約時代の律法を守ろうとしてがんばっているのがエホバの証人です。彼らは時代錯誤に陥った集団です。血を食べてはならないと旧約聖書に書いてあればそれを守るわけです。
しかし旧約聖書に書かれて律法は新約である今の時代の型を示しているのです。たとえば私たちは洗礼を受けました。洗礼の水はイエスキリストの十字架の血であると教えられています。その血に与るから我々の罪は潔められたのです。その血の意味を旧約聖書の律法を読む時に我々は学ぶことが出来ます。それが型であると言う意味です。
我々の祈りが聞かれるのも、神の守りと助けがあるのもすべてイエスキリストの血が神に訴えてくれている故です。なぜなら我々はキリストの十字架の血、即ち洗礼を受けて義人とせられたからです。
だから聖書は単に輸血をするなとかの低レベルの話をしているのではありません。旧約聖書では血を食べてはいけないという戒律を通じて血の重要性を教えていたのです。それはあくまで型であり、本体は新約時代になって流されたキリストの十字架の血です。その効力を私達が知る助けになっているのが旧約聖書の律法です。
教会に於いてキリストの血を用いる儀式は洗礼式と洗足式と聖餐式で、これらは教会の三聖典です。
つまり輸血の問題とは全く関係ありません。無知な指導者が時代錯誤に陥った悲劇です。エホバの信者はその呪われた教会から早く逃げるべきです。
今成すべき事を為す
さて、話は本論から少しはずれましたが、我々個人個人も人生における今の自分の時を知る必要があります。
教会にもその時その時神の徴が顕わされています。そして今進むべき方向を見出しています。
個々の人生においても変革の時が在ります。
例えば結婚です。男の人もそうですが、女の人はかなりの部分で状況が一変します。名字も変わります。住む場所も変わります。環境も変わります。その時から急に変わるのです。
信仰の世界でもある時を境に変わる時期があります。その時期を見失わない様にすべきで、その為にも徴が大切です。
イエスがおっしゃった時はまさに旧約の時代から新約の時代の幕開けが目前に迫った時でした。しかし、時の宗教学者の先生達は今だに旧約聖書の研究ばかりに熱中していたようです。時代の流れに目を背けていたようです。徴を見ながら見て見ないふりをしていたのでしょう。「偽善者」とはそのような態度に対するイエスの警告です。
自分の今成すべき事よりも自分のしたいことを絶えず優先する宗教家は、たとえ熱心に見えても決して本物にはなれません。なぜなら自分のしたいことをするのに特に信仰は要りません。自分の成すべき事を悟った時こそ信仰が必要になります。
ヨハネ第3の書
1:2 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
1:3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。
1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
わがままと嘘
わがままがすべてが悪いと言うのではないですが、みんなが自分の欲求を通そうとしたら、社会はうまく機能しません。だから仕事でも家庭でも自分の好きなことだけをして幸せに成れると言うのは間違いです。
自分の好きな事が出来るのは幸せですが、好きな事だけしても幸せにはなれません。
わがままな生き方は楽かも知れません。正直楽な方がいいです。でも信仰の世界ではわがままは問題があります。わがままな性格は必ずうそをついてしまうからです。うそはサタンの性質です。
世の中ではうそも方便ですが、そういった種類のうそではなくて、信仰の世界は神と自分との関係ですから、そこでのうそ偽りは問題があると言えます。結果として周囲の人々に被害を与え自らも祝福を失ってしまいます。
たとえ物事がうまく進まない時でも(実際はうまく進まない様に見えているだけですが)、祈って、主イエスを信頼し、自分の成すべき事をしていれば、後は神に任せすべてを受け入れるのみです。
しかしわがままな性格の人は何とか自分の思い通りに事が進む方法はないものかと考え始めてしまいます。更に悪いことには自分の為に誰かが動くべきだと考えてしまいます。でも他人は自分の思い通りに動いてくれません。するとそこで嘘をつくことを考えてしまいます。
その嘘の材料を聖書とか他人の証しから集めたりし始めるとちょっと危なくなって来ます。
世の教会の信者さんで時々熱心に私達のお証に耳を傾けてくる人がいます。熱心に聞いているからさぞかし真の救いを求めていらっしゃるのだろうと思えばそうでもありません。聖霊を受けようともしません。耳を傾けている動機が違うのです。お証を聞いて教えられましたではなくて、他者を操るために聖書やお証を持ち出して私はこの様に教えられましたと言いたいわけです。単に嘘をつくだけではなくて自分の主張、考え、思想などの裏付けをこしらえて人々に訴えようとしているのです。世の教会でも人の大勢集まる教会にこういうタイプの人がいます。
こうなると神からのメッセージも、真の教えも受け取ることが出来なくなります。ですからこのような性格も信仰生活の中では自ら変えていく努力が必要となります。神は色々な状況の中で我々を教育して下さいます。もし他人に対してわがままならその人は神に対してもわがままです。神は目に見えないだけにより一層そうなります。人はそんなわがままを我慢出来ないでしょうが、神は忍耐のお方です。しかし一方で良き教育者です。そして私たちが学ぶことはいつでも神の愛です。
敬虔の修行
もし短い人生の中で神の愛を内に持った私達がそれを外に顕わして行くなら、もしそれを努力して可能とするなら、最善最高の人生を生きて行けることでしょう。
聖書には神を敬う事を修行しなさいとあります。それは神を大切にしなさいという事です。神の言葉を大切にしなさいと言う事です。神の愛を大切にしなさいという事です。そして様々の事柄が起こる日常生活は我々の善き修行の場です。
そこで祈り、自分の今成すべきことを知り、それを実行して行きましょう。主は常に私達と共にいて下さいます。