闇の支配者たち
震災の街へ
去る26日木曜日は大阪の枚方にある津田イエス之御霊教会の献堂式に列席致しました。献堂式と言えば教会の建物が新しく完成し、大変におめでたいお祝いであります。昨年の12月に案内の連絡を頂き出席の申し込みを出しておきました。前の日に芦屋の伝道集会を行おうと予定をたてて、飛行機とホテルの手配を済ませました。
先月12月と11月は芦屋の伝道集会に行く為に神戸にホテルをとりました。その方が交通なども便利が良い事が多いので今回も献堂式が無ければそうしたかも知れませんが、今回は大阪の全日空ホテルに予約を入れました。結局それがよかった訳で、先月2泊した神戸のホテルオークラで三宮の街まで歩いてみましたが、それが三宮の街を私が見た最後でありまして、今は映像で瓦礫と焼け落ちた建物の変わり果てた姿を見るのみです。
廃墟の中で
旧約聖書の予言者かのエレミヤがエルサレムの破壊されて荒れ果てた街の姿を見た時の心境はどうであったか。知る由も無かったのですが、今回少しは分かった様な気が致します。
五千人を越す人々が10秒にも満たない瞬間の間に命を失う事になろうとは誰にも予測のつかなかった事であります。人間の人知をはるかに越えています。人間の頭脳がいかに優れていようともこのような事態を目の当たりにしてみれば、人はあまりにも無力で弱い存在である事に気がつきます。食糧も飲み水も暫くの間は手に入りません。住居に至っては未だに寝る場所も満足に確保出来ない人々、いわゆる避難民状態の人々が何万とおります。
こんなに豊かな社会になっていると言われていながら、今目の前にある現実は何一つも豊かではありません。まさにこれが現実で人々は今まで豊かさの虚像の中に生きて来たかのようです。
国の対応の鈍さ、その臨機応変の無さにも驚くばかりで、このような責任感のない指導力のないエリート官僚を作り出して来た日本の社会にも問題があったと言わざるを得ません。なぜ10兆円程の予算を緊急に組んでこの災害復旧に当てる事が出来ないのか。今の日本にそれくらいの事はわけが無いはずですが、どうも庶民には理解の出来ない事が多いです。やはり聖書にあるごとくこの世の中の政治権威支配をつかさどっているのは悪魔です。彼らは今もって空中以下を支配するこの世の神であります。
光を照らす
我行わば
しかしこの暗き権威と支配から完全に脱却し悪魔の支配を全く受けない自由とせられているのはイエス之御霊教会のみであると言っても決して過言ではありません。このような時期にあってもイエス之御霊教会では献堂式が成されている事一つをとってみてもまさしく神様と悪魔との業は正反対であります。
そしてこの献堂式に参加する我々にとってもその準備の段階からすべてが導かれておりますから、本当に普段の時よりも不思議とスムーズに事が運んで参ります。
ホテルにしても今回は航空券とパックになっている商品を買う事に致しまして、手続きを済ませておいたのであります。あまりの安さに驚きましたが、1ヶ月以上前からの予約が必要とのこと。キャンセルしても料金は戻らないなどのデメリットもありましたが、神様の定めた式典ですから変更という事はありません。聖書には「我行わば誰か止めんや」との神の言葉があります。神様が事をはじめているとするならば、これを完了させるのも神様であります。誰もそれを止める事は出来ないのであります。
神の恵みに包まれ
地震で津田教会の周辺も揺れた様ですが、全く支障はなく全ては予定通りに運ばれました。参加した私に致しましても1ヶ月前からの予約で大変に安くホテルに泊まる事が出来ました。今大阪のホテルは通常の料金以上払っても絶対に予約が取れないのであります。
献堂式、神様に恵まれる事だから是非出席しようと早くから決めていた事が今回は大変に良かった訳です。私達は安息日礼拝でも感謝祭でも大聖会でも神様に恵まれる式典や行事などは導かれて上から思わされた時にすぐに決断して準備をする必要があります。悪魔の働かないうちに。あるいは自分の頭が色々と語りだす前に。
そうでないと段々と理性がものを言い出す事があります。時間がもったいないとか、お金がかかりすぎるとか、合理的でない理由が沢山出て来ます。しかし上からのものは合理的ではありません。下から人間の側から作り出すものは合理的で無ければおかしいのですが、この導きと言うものは上からのものですから、合理性とは全く関係の無い事であります。そして合理的判断よりもはるかに優れた結果を結ぶものであります。チケットには朝食までついていたのですから。
最初伊丹空港に着きますとそこから予定していた大阪行きのバスが出ていないという事です。ちょっと戸惑いましたが、空港で案内の人に聞きますと、近くの私鉄の駅から大阪まで乗れるという事なのでタクシーでワンメーターのすぐ近くの駅に出ましてそこから大阪に出る事が出来ました。これは私にとりましては新しい発見でして、「こんな道があったのか」という様な事で大変に有意義でありました。バスで千円近くかかるはずが、そこから大阪駅までは二百円で済みました。今後このルートが役にたちそうで感謝でした。
聖霊の導きと助け
さて、献堂式に出席致しましたところ、これ又予想していなかったお証を聞く事が出来ました。それは説教が神戸教会の清村先生でして、この度の震災で教会の信者さんも沢山災害の地に住んでおりましたが、全員守られた事。そのお話を聞く事が出来まして、神様を崇めました。
清村先生自体、あの最も被害のひどかった灘区に住んでおりまして、7年前に今の垂水区に移って来たとのこと。その時幾人かの信者さんも移ったそうです。ニュースでは地震が直線上に海の方から須磨にかけて起ったが、途中垂水を飛び越えたと報道していたのを聞いて旧約聖書の過ぎ越しの祭りを思い起したそうであります。
2人の信者さんは火災のひどかった灘区に新築の家を持っていたそうであります。テレビでも移っておりましたが、石油の備蓄タンクのある近くで火が向かって来るのを見てお祈りをしていたそうです。そうしたら火力が弱まり、風向きが変わって火災から2件とも免れたとのお証でありました。
屋根から焼け落ちた商店街のアーケードがあります。いつも出勤でその時刻に其処を通る信者さんはその日に限って数分いつもより早く通り抜けた為に難を逃れたとのこと。
腰の骨が外れて痛くて教会に来れなかった年配のおばあちゃんが、地震のはずみで腰が直ってしまい、教会に来るようになった事。
2階で何時ものように寝ていたら助からなかったのが、その前の晩に限って下で着替えもせずに遅く帰った為に寝てしまって助かった信者さん。
逆に何時も決まった時刻におきて隣の部屋でお祈りをする方が、その日に限って朝寝坊をして何時もより遅くおき地震の際に隣の部屋にいなかった事によって助かったとのこと。
枕元に置いてあったテレビのビデオの台が倒れてきたけれども頭の上に落ちているはずのビデオの機械が少し離れていて助かった信者さん。
どーんと洋服ダンスが寝ているところに倒れて来た信者さんは、しかしその瞬間観音開きの戸が開いて倒れたので、すっぽりとたんすの中に収まって助かったとのこと。
逃げる人も懸命でありましたが、避難する信者さんであってもゆとりがあり、家族が外に出たところで一人子供がいない事に気付いた親が他の子供にたずねるとお兄ちゃんは本の整理をしていたと答えたそうです。実は本棚から本が落ちて来てその中に埋もれていたのですが、神様に守られている信者さんの家族は悲惨な話の多い世の人々とは全く違って滑稽ですらあります。
芦屋の野下兄はあの分断され横転した高速道路の場所をその1時間ほど前に走っていたというのでありますから、本当に神様の守りと導きを感ぜざるを得ません。
我彼の中に
教会の信者さん全員が守られました。これは2年前の鹿児島の水害の時も同様でした。決してこれらは偶然ではなく、その一つ一つが奇蹟であります。しかし奇蹟であっても別の見方をすればこれは救われた信者さんに与えられた神様の約束であり、それは聖書に書かれている事であります。聖書には一万三千の約束があると言われておりますが、そのすべてを知らなくても本当に神様の約束は我々の知る知らないに関らず与えられているのであります。今そのなかからヨハネ伝14:23とコリント前3:16とコリント後6:16の3ヶ所をつなぎあわせて読んでみましょう。
「我彼の中に住まん」「我彼の中に生きん」「我彼の中に歩まん」
聖書をただ頭で読んでいるならば、これらの神の言葉の本当の深さを測り知る事は出来なかったでしょう。救われた人が体験を通して聖書を読む時にこれらの真理は上から示されてはっきりと自分のものとなるのであります。もし神が我等のうちに住むならば、そこが神様が我々に話す所です。頭ではありません。救われた人は霊で頭の知らない事を先に神様から教えられているのであります。それがこれらの災害から必然的に回避する行動に現れたのであります。
ある信者さんは地震の2日前から寝る場所を変えていたそうです。それで助かったとのこと。この方は一人暮しの年配の女性で、年賀状を頂いておりましたが、今回一般の方々で犠牲者の多くは年寄りでありました。しかし年寄りであっても聖霊がうちに宿っているならば聖霊は教えてくれるのであります。ヨハネ16:13を読みましょう。誠にそこに書いてあるとおり、これから起って来る事も聖霊は我等の霊に語って教えてくれているのであります。
「されど彼すなはち真理の御霊きたらん時、なんぢらを導きて真理をことごとく悟らしめん。かれ己より語るにあらず、凡そ聞くところの事を語り、かつ来らんとする事どもを汝らに示さん」
魂の救い
被災地の魂の為に
世の中はこの暗き中でありますが、その中でもイエス之御霊教会は光あり、喜びあり、楽しみあり、献堂式ありで素晴らしい事であります。
しかしながらこのような自体の中でのお祝い事ですので、主催教会の牧師もあちらこちらから祝電を貰っているにも関らず、今回は祝電の披露は控えたいとの事でありました。これ又いくら祝福だ幸いだからと言っても世の中の秩序ある常識に従うところのわきまえをもった所が教会でもありますので、これ又至極当然の事と思いました。
式典の始まる前に異例とも言える、この震災の為に被害にあった人々とその街の為に神様の救いが与えられる様にとお祈りも成されました。一人でも多くの方がこの機会に水と霊の救いに与る事を願ってお祈りを致しました。
更にこの福音が全世界にのべ伝えられる事の為に主に用いて戴きましょう。
天地は過行かん
献堂式の前の晩に芦屋に参りまして、痛切に感じた事はあの崩れた街と避けて歪んだ道路、住む人がなくひっそりと鎮まりかえった住宅街、聖書にある再臨後の地上の光景から想像される事がそのまま現実としてありました。そして主の御再臨は必ずあると言う事を実感致しました。それは決して遠い将来ではないと言う事です。
今まで再臨についてあまり考える事もありませんでしたが、もし再臨がないとするならば神もいないと言う事です。救いも癒しも奇蹟も祈りも皆意味のない空虚な思想に過ぎません。そして我々は最も哀れむべき惨めな存在に成り下がります。
しかしながら現実に神は我等のうちにすみ救いも癒しも奇蹟も祈りの答えも数えきれないくらいに私達は体験しこれからも体験するのであります。すべて聖書の約束に基づいて。
故に聖書に書かれている聖言は必ず成ると言う事を知らねば成りません。天地は過ぎても神の言葉は成るまでは絶対に消えないのだと言う事です。
その聖言が今人類に与えている最大のメッセージは水と霊によって救いを受けなさいという事ですから、この事を私たちは委ねられている使命を深く感謝して進んで参りましょう。 ハレルヤ
1995年1月28日安息日礼拝メッセージ