
AIとの対話
朝は空気が冷たく、正午前の現在は気温が上昇、
お天気は晴れで気持ちの良い気候です。
街路樹のソメイヨシノが一斉に開花し散歩道が華やいで感謝です。
今朝は面白半分にAI知能と軽い議論を交わしてみました。
途中から自尊心に話題が転換していくのですが、
文字だけ見れば、「自尊」とは何の意味かにわかに理解しづらいです。AI曰く、
「自尊心」は、比較的古くからある概念であり、日本の文化や哲学の中で「自己を尊ぶ心」として使われてきました。
ならば今度は、「自負」とは何かという話になって、同じくAIが言うには、
「自負心」は、特に明治以降に使われるようになった言葉で、西洋的な個人主義や自己の能力への誇りを表すニュアンスが強いです。
なるほど、どちらも似たような意味であって、しかし微妙に異なるわけで、
自分の能力に対する誇りを自負心と呼ぶなら、
自分の存在そのものに対する尊重が自尊心となります。
更に議論は「義」について移行していくのですが、AIの見解は、
「義(ぎ)」は武士道において非常に重要な価値観の一つであり、
正義・道理・誠実な行動を意味します。
武士道における「義」は、単なる法律や規則に従うことではなく、
自らの信念に基づいて正しいことを貫く心 を指します。
例えば、個人的な利益や損得ではなく、「何が正しいか」 を基準に行動することが求められました。
これは、武士が忠誠や名誉を重んじた理由にもつながります。
なるほど、面白いのは、
自分が正しいと思った事を貫いても義ではない。
単なるルールや規則に従っても義ではない。
自らの信念に基づいて正しいことを貫く心が義である。
とされていて、その信念には
個人的利益や損得が含まれないと。
つまり義とは私利私欲を満たすよりも、
信念によって正しい行動を選択することです。
これは最近はやりの自己肯定感とも繋がります。
最近は自己肯定感を単なる自己肯定と勘違いしている傾向がありますが、
自分をどこまでも甘やかして、他人に迷惑をかけてもお構いなしは、
自己肯定感が高いわけではなく、自己弁解感が高いだけかも知れません。
自己肯定感は、自己過信感でもなく、自己否定感でもなく
文字通り、肯定とは今の自分の上限を認め、つまり弱さを受け容れて、
他者の助けも受け入れられる健全な自己肯定を意味しています。
つまり自己肯定感と訳された元の英語は
self-esteemであり、それを更に日本語に戻すと
自尊心とか自己受容の意味になります。
議論も煮詰まって来たところで、自由という概念を問いました。
なぜなら、自らを由しとする自由は
義の持つ正しさと関連しているように思えたからです。
AIは次の様に回答して来ました。
「自由」と「義」は一見対照的な概念に思えますが、深いレベルでは共通する部分もあります。
「自由」の本来の意味である 「自らを由とする」 という解釈は、
自分の意志や判断に基づいて行動することを意味します。
これは単なる自己中心的な行動ではなく、
内面的な規範や信念に基づいた責任ある自由 として捉えることができます。
この点で、「自由」には必然的に倫理的な基盤が求められるのです。
一方で「義」は、自らが正しいと思う道を貫くことであり、
他者や社会のために行動するという面があります。
「義」もまた、自己の信念や倫理的な基準に基づいています。
このように、どちらも「内面的な正しさ」や「意志の選択」に深く関わる概念と言えます。
つまり、「自由(自らを由とする)」が真の意味で成立するためには、
「義(正しさ)」という内的基準が必要である とも考えられます。
単なるわがままな自由ではなく、義を基盤とした自由であることが、人間としての責任ある生き方に繋がるのです。
この点で、自由と義は対立するどころか、補完し合う関係にあると言えるでしょう。
おっと、これは何だか深い議論になって来ました。
ここまで話が出来るとは正直意外でしたが、
議論の目的は勝ち負けにあらず、気付きにある点を忘れてはいけません。
そこで今朝の気づきを総括すると、
「自由が真の意味で成立するには、義という内的基準が必要である」
これAIそのままの受け売りになってしまいました。