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聖霊 永遠の生命なる主の御霊

生活に於ける聖書の約束

水道工事会社の聖別祭感謝祝福祭
今週はまず最初の日曜日から聖別祭感謝祭祝福祭がありました。水道工事会社であります。
ここの社長さんは今から4年前に教会に来られました。その時私は初めてお会いしました。
その社長さんは学生時代から世のキリスト教会で信仰をして来た人です。具体的にはインマヌエル教会とバプテスト教会です。しかしそれらの教会で信仰を学んで来ても一向に祝福がありませんから、いきづまってしまいました。
会社をもってからも大変な苦労が多く、ある時に部屋で一人お祈りをしていたそうです。もちろん当時まだ異言でお祈りは出来ませんでしたから、分かる言葉でお祈りをしていました。

世の教会に於ける神の御心
この教会は悩みや問題があっても一切教会には持って来てはならないなぜならそれらはみんな神様のご意志でありみこころであるからだと教えているそうです。
つまり問題や悩みは神様が解決してくれるのではないどころか、むしろそれは神様が与えているのである。と言う事になります。

「一体何の為に?」と私は聞きたくなります。いったい何の為に神様は悩みや問題を与えるのか。その目的は何か。

そうすると多くの場合「試練」と言う言葉が返って来ます。
しかしそれは目的には成りません。更に聖書には神様は私達を悩みから救うと書いてあって、悩みを与える事がみこころであるとは一ヶ所も書いていないのであります。

この社長さんはしかし世の教会の教えを忠実に守っていたので、ここが問題なのですが、多くの場合人は教会の教えを忠実に守って聖書の教えから離れているのであります。

聖書は何と言えるか
教会が何と言っているのかが問題ではなくて、聖書は何と言えるかが問題です。

受霊の体験
この社長さんは真剣に悩んで一人部屋で神様に祈りをささげておりました。そしたらそこに神様の力が与えられて来て、上から力が注がれ、祈っているまま体が空中に浮いたそうであります。
目を閉じたまま恐る恐る自分の片手をお尻の下に入れると確かに体が空中に浮いていたのが分かったそうです。
そして口から分からない言葉が出て来て、すなわち異言を語っていたと言う事です。

異言を語るという事は聖霊を受けた証拠であり徴であります。このお方は教会ではなくて自宅で自分一人で神様に求めて聖霊を受けた事に成ります。ですから何も「ハレルヤ」と必ずしも言わなくても聖霊を受ける事例はたくさんあります。

そんな所からこの教会に導かれて真の救いに与り、それまでの教会から離れたのであります。しかし必ずしもその教えから離れたわけではなかったのでもう一つ祝福がありません。
祝福がないと言うよりも祝福を拒否しているのであります。

祝福を分け与えるは神の御心
神様の方は祝福を与えようとするのに対し人間の方がそれを拒んでいるほうが多いのであります。とにかくその様な状態から教会に毎週の礼拝に来るようになり、自分の考えがかえられて来て聖別祭をしたいと言う事に成りました。

聖別祭をした翌日に教会に来られました。そして、不思議な事に今まで長い事話がこなかった県が、仕事の入札の話を持って来たと言うのです。

もう一つ不思議な事は朝礼で話をすると必ず二人ほどの従業員が反論をしていたのですが、聖別祭の翌日から全くそれがなくなったと言う事です。これは神様の業だと感謝しておりました。この教会と世の教会との違いが良く分かりましたと言う事です。

詩篇の34篇8節~10節
「 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。

  味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
  主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」

神様により頼んでいく事によってその恵みの深さを味わって行く事が出来ます。私達の信仰は常に神様のめぐみとあわれみを味わい感謝して進んで行くのであります。
それは神様をおそれる事でもあります。

神を敬い畏れよ

神をおそれること
神様をおそれるとは驚くとか恐がるとか肉的精神的おそれではなくて、霊の状態、心の状態において神様を敬う心、畏敬の念、尊敬の念であります。

神をおそれよと聖書は教えています。そうするならば乏しい事がないと言っています。9節にあるごとくです。
神をおそれる人は乏しい事がありません。
常に心も豊かに満たされております。

神様の祝福と恵みとあわれみに満たされており、更に必要な時に必要なものが完全に供給されて来る事を豊かと聖書は言っております。

10節にわかき獅はともしくして餓える事があると書いてあります。百獣の王ライオン。
その若きライオンと言うならば恐いもの無しの力に満ちたものであります。しかしそれはあくまで肉の力、能力であって、それだけで世の中を渡っていこうとすれば必ず孤独と餓えと渇きに襲われます。

人間も若い時は自分の肉の力と能力で何でも出来ると思いますが、あの百獣の王ライオンでさえ、ともしくなり餓えている事を知らなくてはなりません。

御霊を崇める

御霊(聖霊)に求める
特に人間の場合心の問題は解決の出来ないものであります。
心の痛みや傷は自分ではどうしようもない場合があります。
けれども神様をたずねるものはよきものに欠ける事が無いとあります。
神様をたずねるとは探し求めるのではなく聖霊に導きを求めて進んで行くと言う事です。

私達は救われて聖霊を受けて聖霊に導かれていくことを学んでおります。そうする事によって霊も肉も欠乏と言う事がありません。ともしきことなしであります。

聖書がその様に言っておりますので、もし、ともしきを餓え渇きを感ずる時は私達が神様をおそれることから、神様にたずねることから始めましょう。

永遠の生命は我がうちにあり

寿命は神のもの
何日か前にある信者さんが夜お祈りに来られました。
母が急に様態が悪くなり危篤と連絡を受けました。しかし島根にいるので明日の飛行機で行きますが、着くのは夕方4時頃に成ります。だからお祈りをして戴きたい、と言うことでした。
医者は今夜がやまだと言っております。神様がこのお母さんの命を保って下さるように共に祈りました。この姉が着くまでどうかその命を延ばして下さいとお祈りを致しました。

病は癒されるべきものであり、寿命は神のものであります。そうしたら本当にこの姉が到着してもまだ息はあり、翌朝に眠るようにして息をひきとっていかれたとのことです。

救いの確信
信者さんの最後は本当にこのように何時でも安らかに平安のうちに天に召されていかれます。
このお母さんは2年前に洗礼を受け救われております。
水と霊の救いの有り難さが本当に感じるのはこの臨終の場に接した時でしょう。救われている身の幸いが痛切に感じられて参ります。

いつも告別式の際、召天された兄姉方のお顔を拝見し、皆一様に安らかで喜びさえ感じ取れるその表情にこの確かなる水と霊の救いを確信し感謝し、神様の恵みとあわれみを深く味わうことです。

我らの国籍は天にあり
さてしかしながら、まだ地上にあって生きている我々はこの地に於いてのそれぞれの使命に立って進まねば成りません。
この水と霊の救いの為には労を惜しまず、出来る限りに於いて人の救いの為に労して神様の御用に用いられて参りましょう。
そこには喜びと平安が、祝福が上よりのものが伴って参ります。
上よりのものを第1にして、地からのものに固執せず、やがて行くべき上よりのものにこの地上に於いて与って進んで参りましょう。ハレルヤ
(1994年10月22日安息日礼拝メッセージ)

By Shinichi Uema
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