
愛は寛容にして慈悲
お天気は晴れて視界クリアなのですが、
最高気温5℃と今年一番の寒さとなり、
キーボードを打つ手が少し悴んでいますが、
インフルにもならず感謝です。
マタイ福音書18章21ー22節では
ペテロの質問にイエスが答えています。
兄弟を赦すのは七度までで良いかという質問に
イエスは七度を七十倍するまで、
と答えています。
今朝ある方からご質問で、
これはどういう意味でしょうか、と。
答えは簡単で
490回です。
単に赦しなさいと言われるよりも
数字で示されると理解しやすい時があります。
兄弟と書いてあるので、
世の人々一般とは区別して
救われた教会の兄弟姉妹という意味にもとれます。
神の子たちが、愛と赦しの中を常に歩むことを
主は喜んでいて、
また人を赦す祈りは神の前に尊いものです。
結局、他者を赦すという事は
自分を赦すことに他なりません。
逆に他者を赦さない人は
自分を赦せない人でもあります。
自分に厳しいという言い方は
かっこいいかも知れませんが、
自分を監視しているもう一人の自分がいて、
それがうるさ過ぎるだけなのです。
それが多少役には立っているかも知れませんが、
何事も過剰に過ぎると、
足りないよりも、たちが悪い場合があります。
論語の中で孔子が述べているのも同じことで、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」なのです。
ある時、孔子の弟子が質問しました。
先輩の子張と子夏のどっちが優秀かと。
孔子の答えは、
子張は行き過ぎで、
子夏は足りない、でした。
ならば子張の方が優秀ですね、と再度質問したら、
行き過ぎは足りないと同じ、
という返事だったわけで、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と返って来たわけです。
キリストは別の個所で、
人を責める前にまず自分を責めよ
という意味の事をおっしゃっていますが、(マタイ7:4-5)
同じ様に、
人を赦す前に自分を赦せ、とも言えるわけです。
自分を監視しているもう一人の自分は
いったい何にこだわっているのでしょうか?
それを見出して捨てた時に、
その監視役は、寛容な受容れ役に変わってくれるはずです。