Cipresso of our church members

荒波を歩む

稚拙な秀才たち

ミステリアス
今週も日本はオウム教一色と言う感じで瞬く間に過ぎてしまいました。信者さんの中にはすでにオウムに詳しいオウム博士の様な人も出て来ました。教会の信者さんのみならず近いうちに日本国民総オウム博士に成るのではないかとおもっています。

これほどまでに今話題をさらっている大変ミステリアスな団体です。諸外国もこれに注目して捜査を見守っている状況の様です。
私もここで安息日にわざわざ取り上げる必要もないのですが、これもめずらしいことです。

宗教と言えども事業を行いそれも多岐にわたっています。ラーメン屋から病院からピストルの製造にまで手を伸ばしている様です。
人を誘拐しては監禁する。子供に教育を与えない。薬を与えて言いなりにさせ、土地を奪い財産をお布施させ、果てには核兵器、細菌兵器まで開発し、米国陸軍の管理下にある旧日本軍731部隊の極秘資料まで持っていた様です。

稚拙な秀才たち
しかも宗教法人の肩書を利用して脱税まで行うなど、指導者クラスの人間は頭脳優秀な学歴も立派な者で占められているにも関らずその言動は幼稚で誇大妄想に満ちています。

先日はその組織内の科学部門の担当責任者で筑波大学の大学院を出た人物がテレビで堂々と言っていることは、去る関西大地震は人為的に起こされたもので、地震兵器で、よその国が攻撃を仕掛けて来たとか、イランイラク戦争で二十万以上の人が死んだのに遺体が8千程しかないのは磁気光線のようなものを使用したからだとか、全くまじめな話にならないのです。

生きる知恵と殺す無知

社会を惑わす殺人集団
それが彼らにとってまじめな話なのか、人々を故意に攪乱しているのか、聞いている人も混乱させてしまう程です。しかしこの様な事態になってから信者が増えたとも一部では報道されています。
これもおかしな現象です。
彼らの言動が本当なのか嘘なのか、見分けがつかない人々の浅はかな行動であると私は思っています。

少なくとも人を殺すのはおかしい、間違っていると見分けられない程の馬鹿になってはなりません。

彼らの言っている事が嘘であり間違いであるのが明らかなのは、常識から外れているからです。ところが日本の常識は時々世界の非常識になっています。なぜでしょうか。
日本人にはあまり意識がないのですが、世界の常識とは聖書だからです。

故に聖書によって真偽を見分ける力を養うことは大切です。聖書によって判断すれば間違いはありません。
人生に遭遇するあらゆる問題に聖書は解決を与えてくれるのです。

ダビデの演技
そこで思い起こすのが、サムエル前書21章の11節からの記事です。
21章から27章まではダビデがサウル王の追ってから逃れて逃亡中の時の事です。詩篇の多くはこの期間にかかれたものです。
サウルの手を逃れてアキシュ王のところに彼は行くのですが、そこの家来達がダビデを認めてソウルよりも今や人気があるダビデを王として称えたので、ダビデはアキシャ王を警戒し何をしたかといえば、門に傷をつけたり髭によだれを垂らしたりして気違いを装ったのです。そして別の所へと逃げました。

前田の殿様
この様な話は日本でも江戸時代にあったことでして、徳川が目を常に光らせて見張っているある大名、恐らく前田藩の殿様だったとおもうのですが、彼は自分の藩では一生懸命に勉強をしておりました。
しかし江戸にいる時には城に呼ばれると他の大名と違ってだらしない格好で城に入っていきました。ぬいた刀をそのまま腰にぶら下げていくので刃の先が廊下に敷いてある畳みにあたって畳が切れてしまいます。さすがに江戸城ですから帰りの夕方までには新しい畳に入れ替えてあるのですが、帰りにも同じ様に畳を切って帰って行きます。それを見て徳川の殿様は安心し前田があんなに気が病んでおれば天下も安泰とほくそ笑んでいたわけです。

しかし彼は自分の郷へ帰ると勉学に没頭し、文庫を築き、学問を重んじました。たぶん聖書も読んでいたのではないかと思っています。日本に聖書が入ってきたのは古く聖徳太子の時代だったとの説もありますから。

生命の光のうちに

聖書の教え
このように窮地に陥った時に自分を狂人に見せかける。実はこれも聖書に書かれてあることです。ダビデはそうして逃れました。その頃に詠んだ歌が詩篇56篇でした。最後の13節、口語体。

「あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまづきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした」

私たちの歩みは大切です。
一度だけの人生の歩みをどのように歩むか、どの道を歩むか、誰と歩むか、何を頼りに歩むか。
この世に人は生を受けた以上歩まねばなりません。

魂の成長
信仰でも同じ事が言えます。水と霊のバプテスマを受けた時私たちは新しく上から生まれ変わったのですが、その後聖書の言葉によって歩んでいくうちに少しづつ心で神を悟り、心が養われ成長して行くのです。
そして神を敬い畏敬の念が生じてきます。

「神の御前を歩むため」と最後にありますが、神をおそれて歩むと言う事が実に神の御前での歩みです。
そこには一切の不安が無く、神の恵みといのちの光で満ち満ちています。
聖書によって命の光の中を歩んで行くことが私たちに対する神の御旨です。

ですから私たちは自分の魂を充電する為、教会に来る必要があります。そこで魂の糧を得るのです。

魂の成長。どんなに知性が発達して大学院まで出てもその人の心が成長していなければ、あくまでもその人は幼稚のままです。

幼稚な宗教集団
心の幼稚な人間はその行動にもそれが表れます。つまり心の成長のない人はその子供の様な行動で判断できます。

子供の行動の基本は他者のまねごとです。つまり「ごっこ」遊びです。
このおかしな団体のしている事はやはりまねごと遊びの域を出ていません。

たとえば彼らは国のまねごとをしています。たくさんの省庁も作りました。
科学技術庁やら、厚生省やら、防衛庁やら。皆子供の「ごっこ」遊びです。
これは宗教と呼べるものではありません。なぜなら全く人の心を育てていないどころか、むしろ幼児期へ逆行させる行為だからです。

社会の迷惑
彼らの国の彼らの神は尊師です。これも全く神様ごっこです。その神様は彼等の世界だけの神様のはずですが、尊師である神様自身がそれを忘れてしまったらしく、おかげで周囲の社会がさんざん迷惑を被っています。

波の上を歩む信仰
神のみ前に歩む為に、イエスキリストは私達を救ってくれました。まず死の問題から救ってくださいました。更に苦しんでつまづき乍ら歩んでいた毎日の生活から私達を救ってくださいました。

この現実社会の荒波の中に於いて、神の御前に歩むために。
しかもいのちの光のうちに歩むためにです。この光は聖書の言葉です。

悪魔の罠
我々の歩みを妨げようとしている悪魔の罠に引っかからない為にも、常に聖言を傍に置いて、聖書を魂の糧に戴き、地に足をしっかり着けて、生命の光の中に踏み出してまいりましょう。
そしてまだ救われていない人々を救いに導いてあげたいと願って生きる事です。

聖書の立証
我々のしている事は決して信仰ごっこではありません。
子供の遊びとは違う証拠に、私たちの魂が日々成長し、日々進歩し、日々希望に向かって歩み、神の業と神の栄光が表れています。人々を活かすところの福音を証しています。
我々の生き様そのものが神による聖書の立証なのです。
なおも大感謝と勝利の中を歩んで参りましょう。ハレルヤ

1995年4月8日安息日礼拝メッセージより

By Shinichi Uema
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