信仰の成長に必要なリスト
最近思うことは、成長することの大切さです。特に信仰の成長は信仰期間の長さにはよりません。成長して行くためには時間がかかりますが、時間がかかっていれば皆成長しているかと言えばそうではありません。
木が成長して果を結ぶように、信仰も成長して果を結びます。
その第1の果は「愛」です。つまり、成長した信仰の大人となった人とは完全な愛に到達した人です。完全な愛とは神の御愛です。
では、私達の信仰を成長させる為に必要ないくつかの事が上げられますがまず最初にそのいくつかをリストアップしたいと思います。
忘れる
許す
祈る
信ずる
礼拝する
与える
証しする
忘れる事
今まで何度も聞いた事もあるかと思いますが、これらの基礎的な要素を学ぶことは信仰の成長に欠かすことが出来ません。まずは一つだけを見てみましょう。
最初の「忘れる事」とは、過去を忘れると言う事です。
私はもうとっくに忘れましたと言う人がほとんどかも知れません。
過去の特に救われた以前に自分のしていた間違った事などは皆救われた後に忘れております。つまり自分に都合の悪い事は忘れてしまっていますが、実際それが悪いわけではありません。自分に都合の悪い事を憶えていても特に役立つ事はないでしょうから。しかし、過去の悪い習慣の様なものであったとするなら、それはむしろ積極的に忘れるべき捨てるべきものです。ただそのような過去の習慣を忘れていない場合があります。
後ろのものを忘れる
[新共同訳] フィリピの信徒への手紙 3:13-14
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
ここで、気づくのはこれを書いた信仰の人、使徒ポウロがこれを書いた時点でまだ走り続けている点です。彼は走っているのであって、決して終着点にたどりついてはいません。終着点についたと思っている人、自分は何でも知っていると思っている人に霊の成長はもうありません。何でも知っている人など本来は存在しないのです。
実際神の事を知れば知るほど自分の知らない事の大きさを認めて行くのです。
「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」
そのように出来る為には、信仰を成長させる最初の段階を踏まなければなりません。それは「後ろのものを忘れ」る事です。この忘れるを抜きにしては成功出来ません。「後ろのものを忘れ」
腹八分
この言葉の中には更に過去の祝福も含まれております。もし私達が過去の祝福の中に生きているなら、賞味期限切れのおにぎりを食べて生きているようなものです。
聖書には、かつてエジプトを出て荒野を進むイスラエルの人々の上に、毎朝天よりマナが降って来たと書かれています。欲張って次の日の分まで集めてもそれらは腐ってしまいました。
神は新鮮なマナを毎日降らせてイスラエルの人々を養ったのでした。ただ金曜日だけは例外で翌日の安息日の分まで拾って良かったのです。そのマナが腐ることはありませんでした。
もし私達が過去の祝福で満足しているならば、神が用意している未来の祝福にたどり着くことは出来ないはずです。
腹八分は医者要らずと言われます。肉体の事も精神の事も良く似ています。腹八分で満足する姿勢に精神的また霊的祝福の秘訣があると思います。
これをいささか背理的に説けば、たくさんの祝福を神より戴いても八分と受け取って、決して祝福で満腹してはならないと言う事です。
言い換えると神の祝福に対していつでもハングリーに小腹を空かせておく事です。
告白と許し
私は信仰の多くを教えられて今では何でも知っているといった様な錯覚に陥らない様気をつけましょう。信仰の世界にはその類の死角があちこちに置かれています。
確かに今日まで受けて来た、過去の体験と祝福については神に感謝を捧げます。しかし、どんなにたくさんの祝福を神より戴いてもそれを腹八分と受け取らない限り、信仰の成長が停止するおそれがあるのもまた事実です。我々は何という矛盾の中で信仰の闘いをたたかっている事でしょう。
更には又、過去に自分が犯した失敗や過ちや罪があってもそれらを忘れなければなりません。もし私達が自らそれを目前に掲げて忘れる努力を惜しむなら、そこに悪魔が付け込んできて私達を責めそして滅ぼそうとするでしょう。そうなったらもはや成長は望めません。場合によって祈りは信仰は効力を失ってしまいます。
正直に考えるに、不完全なる人間である以上私達は誰でも何かしらの失敗を過去に犯して来ました。
人は成長して過去を振り返ってみると、当時の事が幼稚に見えるはずです。
私も若い頃、まだ牧師になり立ての頃は素晴らしい説教をしていたと自分で思っていた時がありました。しかし正直に言って、あの頃は聖書よりはむしろ科学雑誌や新聞などから形ばかりの知識を拝借して、いかにも分かっているかのように講壇から受け売りの話をしていたのでした。
今振り返って思えば恥ずかしい限りで穴があったら入りたい気持ちになります。しかし、そのときは恥ずかしいと思っておりません。むしろ今より堂々と語っていたかも知れません。まことにこれは恐ろしい事です。なぜなら、知らずして罪まで犯し兼ねないからです。
もし自分で認識出来る罪なら神の前にて告白し許して頂く事が出来ますが、認知出来ない罪はそうは行きません。ただ神の恵みと哀れみに寄りすがるのみです。
[新改訳] ヘブル人への手紙 4:16
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
私達が神の前に大胆に立つことが出来るのは、神が私達の過去の罪を忘れて下さっているからです。神が忘れている事をあえて私達が思い出す必要があるでしょうか。全くありません。
[新改訳] イザヤ書 43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
大感謝大讃美ハレルヤハレルヤ神を讃美します。
ヨハネは次の様に書いております。
[口語訳] ヨハネの第一の手紙 1:9
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
信者に宛てた手紙
神の許しに感謝を捧げます。この御言葉は決して世の人々に向けて書かれたものではありません。多くのクリスチャンが誤解していますが、クリスチャンになる条件としてこの御言葉が書かれたのではありません。
もしそうだとするなら、救われていない人が救われるためにもし罪を告白しなければならないとするならば、到底不可能です。どうやってこれまで犯したすべての罪を思い出す事が出来るのでしょうか。更には無意識に犯してしまった罪までも。
まだ救われていない人は罪の支配下に置かれています。30歳の人は30年間すべての人生が罪の性質の中に置かれていたのですからそれを告白していたら間違いなく30年かかります。
ですからそうではなくて、使徒ヨハネはこの手紙を救われている教会の信者に宛てて書いたのです。神は我々クリスチャンが世の人々の如き罪を犯すことを望んでおりません。しかし、もし犯したとしても心から悔い改めるなら弁護主なるキリストは私達を許して下さいます。そして悔い改めとは方向転換です。
[新共同訳] ヨハネの手紙一 2:1-2
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
再び成長する
聖書は、私達が罪を告白したときに、神がそれを許して下さるばかりではなく、もう二度とその罪を思い出さないと言うのです。
私達の信仰が成長する為にこれらの言葉は必要です。世の中の言葉を使えば謝罪でしょう。過ちに気づいたなら即「ごめんなさい」と言う事が霊の世界、信仰の世界でも大変に重要なのです。これなくして成長はありません。そして一度罪を告白したならそれを思い返さない努力を決意をするべきです。なぜなら私達の神もそれを再び思い返されないからです。
愛する兄姉方、私たちは皆、後ろのもの、過去のものを忘れましょう。もしそれを思って満足するなら成長は止まるでしょう。進歩もなくなるでしょう。祈りも働かなくなってしまいます。即ち病の癒しも遠くに去ってしまいます。祝福も恵みも神のすべてが遠ざかってしまうと私達の魂は干乾びてしまいます。
しかしその魂の乾きを感じるなら、それが神の恵みというものです。飢え乾きを感じる事がこれまた神の恵みなのです。なぜなら神に求め祈る事が出来るからです。謙虚になって自ら神の前に祈り求める事、これほど人にとって尊い事はありません。その時から人は再び大きく美しく成長して行きます。
(アーカイブ説教集 1999年5月15日礼拝メッセージより)