エッセイ
先日葬儀の時に火葬場に行って驚きました。いつの間にか立派な新建造物に変わっていたからです。それまでの旧式の建物からは想像もつきません。正面玄関だけ見せられればコンサートホールさながらの斬新なデザインで率直に素晴らしいと感じました。
火葬の日本と違って欧米は埋葬が多い様です。先月行った合衆国の墓地はさすがに広大で、案内係の先頭車に付いて車で移動しないと迷子になるほどでした。
実際の埋葬に立ち会うと初めて気づく事が多くありました。まず棺です。火葬の場合、棺はほとんど注目もされないし話題にもなりません。簡素で燃えやすければ問題なしといったところでしょうか。
しかし埋葬となると棺のデザインやカラー、装飾にとても意識が行きます。生前に自分の棺を選ぶこともあるでしょう。今回用いられた棺も故人が自分で選んでいたものでした。四隅には天使の装飾が施され、適度な重厚感があり日本では見る事すらない素晴らしいものでした。
次に埋葬という行為がもたらす意識があります。火葬と違ってそこに棺を納める事で故人はしばらくの眠りについたという気がします。いつか再びその眠りから覚める日が来るという聖書の教えにも違和感をおぼえません。
三つ目としては棺と骨壺とのサイズが違うせいかもしれませんが、埋葬だと隣の人との距離が離れるので墓地全体が広々として見栄えが良くなる感じがします。墓地が広々としていれば、公園としての機能も果たし、静かな憩いの場にもなるでしょう。
しかし人口減少化の時代とはいえ日本はまだ土地が狭いのでしょうか。今や天皇でさえ火葬を望まれている時に、埋葬とは何か気が引ける思いがします。事実上困難でもあります。
いずれにせよ今や私たちは天国人となったのですから、地上に未練を残すことは何もありません。いっそ一気に燃やしてもらった方がせいせいするという事もあります。
よく考えてみたら私たちはすでに埋葬されたのです。それは洗礼を受けた時です。水の中に埋められたので水葬されたと言えるかもしれません。
あの瞬間から私たちの過去はすべて葬られ、キリストと共に歩む新しい人生が始まりました。洗礼の水はキリストの血を象徴しており、その血のゆえにもはや私達に対する死や罪の束縛は消え失せ、私たちはキリストの御霊が宿る、即ち永遠の生命を持つ者となったのです。
そこが見えてくれば、ただ水と霊の救いを受けているかどうかが重要であって、埋葬の是非はどうでもいい事なのでしょう。
「証する者は三つ、御霊と水と血となり。この三つ合ひて一つとなる」
ヨハネ第一書5:8